「理」なき原発再稼働 藤村 修

先の衆議院総選挙で、安倍自民党が大勝した。安倍内閣は、これで国民の信任が得られたとして、川内原発の再稼働を今まで以上になりふり構はわず進めていくだらう。「理」より「数」を重視するのが民主主義であるとすれば、民主主義とはこんなものだと思ふしかない。しかし、果たして安倍内閣が進めようとしてゐる川内原発の再稼働は、本当に「理」にかなつたものなのだらうか。
安倍首相は、原子力規制委員会の審査基準をことあるごとに「世界で最も厳しい安全基準」と言つてゐる。もちろん嘘である。例へば、福島第一原発事故のやうにメルトダウンが起こつてしまつた時に、核燃料を受け止めて冷却装置に流し込むコアキャッチャーの設置が、欧米では当然に義務づけられてゐるにもかかはらず、日本にはそんな義務づけはない。また、事故が起こつた際の避難計画は、原発三十キロ圏内の各自治体が独自に策定するものとされ、規制委員会の審査対象外である。だから、規制委員会の田中俊一委員長は、審査基準に合格したからといつて、必ずしも安全を保障するものではないと言つてゐる。しかし、経済産業大臣は小渕・宮沢二代にわたつて、審査基準に合格したから安全性が確認されたと発言してゐる。をかしな話ではないか。もし、不幸にして今後原発事故が起こり、被害が発生したら、経済産業省と規制委員会の壮絶な責任のなすりつけあひが起こることは目に見えてゐる。
そして、この避難計画もデタラメ極まりない。川内原発の再稼働を同意した伊藤祐一郎鹿児島県知事は、入院患者などの要援護者の避難計画については、「三十キロ圏は現実的ではない」として、十キロ圏内しか策定してゐない。福島第一原発事故では、双葉町の介護老人保健施設を併設する病院で、避難の過程あるいは避難先で、実に五十名の方々が亡くなつてゐる。この教訓を生かすならば、まず要援護者の避難こそが最重要課題であるはずだ。しかるに、「現実的でない」ことを理由に十キロ圏内しか避難計画を策定しないとは一体どういふことなのか。また、この再稼働の同意範囲は伊藤知事の強い意思で、県と薩摩川内市に限られることになつた。といふことは、原発三十キロ圏内の自治体は、原発再稼働の同意権はないのに、避難計画の策定義務はあることになる。自治体からすれば、厄介な仕事が増えたとしか感じられないだろう。しかも、その避難計画が妥当であるかどうかを審査する機関もない。といふことは、どんないいかげんな避難計画であつても、チェックされることはない。実際、原発事故であれば大地震や津波が起こつてゐるはずなのに、海沿いの一本道を避難路に指定してゐるやうな計画もある(しかも、この避難計画を策定したのは薩摩川内市!)さらには、今も大部分を居住制限区域に指定されてゐる福島県飯館村の大半は、原発三十キロ圏外にあることからもわかるやうに、避難計画は三十キロ圏内では足らないといふのが、先の原発事故の教へるところである。
こんな杜撰な避難計画であれば、立てない方がよほどマシではないのか。彼らは事故が起つたら住民はみんな被曝して死ねとでも思つているのか。さすがに、そこまで思つてはゐないだらう。おそらくは、事故は起こりつこないと高をくくつてゐるか、事故を想定したくないのかどちらかであらう。しかし、その感覚こそ、「憲法第九条があるから日本は戦争にはならない」という、あの「平和ボケ」と同一のものではないのか。「平和ボケ」とは、我々の秩序や日常が、余計なことさへしなければこのままずつと続いていくといふ根拠のない思い込みのことである。であれば、事故を想定しない原子力行政こそ、「平和ボケ」の最たるものであらう。安倍首相は、集団的自衛権をめぐる国会での論戦で、安全保障に関しては、あらゆる事態を想定しなければならないと発言してゐた。その通りである。では、なぜ原子力行政では同じことをやらないのか。
さて、ここまでして安倍内閣が川内原発の再稼働を急ぐ理由は一体何なのだらうか。ここで、原発推進派がよく口にする再稼働が必要な理由を考えてみたい。最近はさすがに以前ほどは聞かなくなつたが、「原発はコストが安い」といふものがある。もちろん、これも誤りである。大島堅一が昭和四十五年から平成十九年までの発電コスト(すなはち、福島第一原発事故前)を有価証券報告書に基づく実質値から計算してゐるが、それによると、一キロワット当りの発電コストは、原子力が十.六八円、火力が九.九円、水力が七.二六円となつてゐる。もちろん、この数値には、福島第一原発事故後の賠償や除染の金額は含まれてゐない。さらに、原発は出力調整が難しいので、電力需要が少ない夜も出力を下げられないため、夜間は余つた電力で水を汲み上げ、昼に放水して発電する揚水発電と併用するのが普通だが、その揚水発電をコストに計上すると、原発のコストはまたさらに跳ね上がる。(一キロワット当り十二.二三円)。原発のコストが安いといふのは、原発事故前であつても成り立たないといふのがお分かりいただけるであらう。なお、ここで計算した数値も、立地自治体への補助金や使用済み核燃料の処理費用が低く見積もられてゐる可能性が高いと大島氏は断つてゐる。
「大島堅一は脱原発派だから原発コストを敢へて高く計算してゐるのではないか」といふ疑問を持つ方もゐるかもしれない。しかし、原発のコストが高いといふことは、経済産業省も暗に認めてゐるやうなのである。平成二十八年にいはゆる「電力自由化」が実施されることになつてゐるが、その際の自由化された電力の市場価格が原発のコストを下回る場合、市場価格と原発コストの差額を利用者に負担させる制度の導入に、経済産業省が意欲を示してゐる、といふのだ(総合資源エネルギー調査会・原子力小委員会、八月二十一日)。この記事をネットで見た時、正直私はあまりに露骨な業界利権の擁護に唖然として言葉もなかつたが、それはさておき、こんな制度の導入を検討するといふことは、原発のコストが高いことを経済産業省もわかつてゐるとでも考へなければ、辻褄が合はない。
「原発を再稼働しなければ電力が足らなくなる」といふ人もいる。またこれと関連して、「脱原発と言ふのなら、原発に代わる発電方法を提示せよ」といふ人もいる。そのたびに、なぜそんなことを問はれなければならないのかといふ思ひを禁じ得ない。私の住んでゐる九州・福岡では、もうここ三年間、原発は稼働してゐない。その間、停電になつたことも一度もない(電気料金を滞納してゐたため電気を止められたことは数回あつたが)。そして日本全土を見ても、平成二十四年五月五日に日本中の全原発が停止してから、再稼働したのは大飯原発のみで、しかも再稼働しなくても電気は足りてゐたといふのが後のデータで明らかになつてゐる。であるから、「代替エネルギーは」と問われたら、さしあたつては「今のままでよい」としか私には答へられない。そもそも、現在原発に頼らずとも電気は足りてゐるのであるから、「いやそれでも原発を再稼働させなければ将来的に電力は足りなくなる」といふ挙証責任を負ふのは、原発推進派の方ではないのか。
将来の核武装のために、原発が必要であるといふ意見もある。また、核武装をしなくても、プルトニウムを保有できてゐれば潜在的核武装になる、といふ人もいる。核拡散防止条約を批准している日本は、原発を動かしてゐないとプルトニウムを持てないといふわけである。日本の技術があれば、原発がなくてもプルトニウムは作り出せるのではないかとも思ふし、またプルトニウムを保有している程度の「潜在的核武装」にどの程度の戦略的効果があるのか疑問ではあるが、そこは私にはよくわからないのでさておく。ただ確かに原発は、「軍事一辺倒によってある種の行き詰まりに直面した核技術開発を、発電など民事もとりこむことによって裾野をひろげ、いっそう巨大なシステムとして確立しようとする意図」(高木仁三郎『核時代を生きる』)の下に開発されたことは間違ひない。つまり、核兵器の利用が先にあり、原発はいはばその「隠れ蓑」であつた。しかし、今日の原子力行政は、完全に当初の目的を忘れて、「隠れ蓑」に思わぬ利権があつたため、そちらを動機としてゐるとしか思へない。アメリカが現在日本の核武装を許すか、そして今の「原子力ムラ」が、核武装か原発のどちらか二者択一を迫られた時、どちらを選択するかと考へてみれば明らかであらう。核武装には賛否両論あるであらうが、少なくとも言へるのは、自分たちの商売に差し障りのある核武装は、今の「原子力ムラ」の選択肢にはあり得ず、したがつて今の原子力行政の延長線上に、核武装はない、といふことである。
「原発を再稼働しないと日本経済にとって大きな損害となる」という意見もある。これに関しては、イエスでありノーであると答へざるを得ない。そしてこの点にこそ、原発のいかがはしさがあると私は考へる。まず、原発が再稼働できなくて一番困るのは電力会社である。原発は、稼働させなくても原子炉を冷却し続けなければならず、そのための人件費などで維持費に一年間で一.二兆円もの費用がかかる。いはば、原発は稼働しなければ単なる不良資産なのである。全く発電できず、したがってコストも回収できないのにここまで維持費がかかるのであれば、何が何でも再稼働させたいと思ふのが人情であらう。
しかし、これだけであれば単に電力会社の経営問題であるに過ぎない。ところが、電力会社は事実上の独占企業で経営が安定してゐるがゆゑに、地元の財界では中心的な存在となる。私の地元の九州では、九州経済連合会(九経連)の会長は、東日本大震災が起こるまでは、七代続けて九州電力の会長が務めてゐた。電力会社は、地元企業の「いい取引先」になるさうである。それもそのはず、電気料金はコストに一定の利益を上乗せして設定できる総括原価方式を採用してゐるから、コストは全て電気料金に上乗せできるのだ。もちろんこのコストを支払うのは我々消費者であり、電力会社は、他の企業とは違って、コストを下げやうと必死になることはないのである。かうして地元財界と電力会社の利益は一致する。電力会社の経営が傾けば、自分たちの利益も失はれるからである。さらに、電力会社は独占企業であるにもかかはらず、何故かマスコミにも広告を出してゐる。電力会社のマスコミへのスポンサー料は、一千億円にものぼると言はれてゐる。よくこれを電力会社に都合の悪い情報を流さないやうにするためといふ説明がなされるが、私はそれよりも、マスコミと「運命共同体」になるため、つまり東電が転べばマスコミも転ぶといふ関係を作り出すためだと考へてゐる。さらには、政界とも「運命共同体」となるために、経営者は自民党に、労働組合は民主党に政治献金を提供する。企業が政治家に政治献金を提供するのは政治資金規正法で禁止されているので、「個人として」役員や管理職が定期的に政治家に、「自発的に」献金を行つてゐるといふのは、有名な話である。かうして電力会社はあらゆる分野に手をひろげ、彼らと「運命共同体」となることで、電力会社が不利益を被れば、彼ら全てに不利益が及ぶといふ構造を作り出したのである。その意味では、電力会社の経営が傾くことが日本経済にも影響を及ぼすといふ点には、イエスと答へざるを得ない。
しかし、このやうな「利権共同体」は、果たして国益として守るべきものなのだらうか。むしろそのために、再生可能エネルギーの接続中断に象徴されるやうに、新規産業の成長が阻まれ、政財官にわたっての再稼働が強引に推し進められようとしてゐるのではないか。私は脱原発派ではあるが、必ずしも原発推進・容認派を否定するものではない。また、原発の再稼働に反対なのは、原発が危険だからという点に優先順位を置いてはゐない。再稼働に反対なのは、そこに「理」がなく、「利」しかないからである。そして、再稼働を阻止せねばならぬのは、それが「利権共同体」としての既得権益との闘ひだからである。

 

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