【寄稿文】民族派は輕擧妄動する勿れ~冬の寒苦に耐へ梅花を咲かせる可し~

大岩 優輝

身を裂く乎の如き寒さが續く砌、漸く庭の梅花が芽を息吹かせつゝある。梅の花言葉は忍耐。冬の長く嚴しい寒苦に耐へ、美しい花を咲かせるのである。以爲らく民族派陣營にとつても、今は冬の時期ではないだらう乎。

今日世の右傾化が囂しく叫ばれてゐるが、街頭に於て「朝鮮人を殺せ」などと居丈高に叫ぶ徒輩を見て、國民が本つ命の故郷に歸らむとしてゐるとは迚も云へまい。翻つて陣營内を見ても、おほくがスローガン至上主義に陥り、運動の爲の運動に堕してゐるやうに感ずる。

そもゝゝ運動スタイルとは時代に依つて變はる枝葉末節に過ぎぬ。筆者は所謂る街宣運動を徒らに否定する者ではないが、幕末の國學者が街頭で啓蒙活動などしたであらう乎。

如何なる時代に於ても變へてはならぬのは、その根幹たる信念、すなはち尊皇精神、國體信仰であり、之れを忘却すれば、如何に街頭で聲高に叫ばうとも、言靈は死んで終ふ。運動そのものを目的と爲す不滿黨でしかなく、妄動する保守だか蠢動する保守だか知らぬが、さう云ふ徒輩と何も變はらぬのである。

嘗て影山正治翁は「大楠公を語る者は多いが、大楠公を行ふ者は稀なり。」と云つた。大言壯語する者は尠くない。云ふは易し。その中でどれだけの者が一旦緩急あれば義勇公に奉すことが出來るの乎。之は自戒でもある。

然りとていまは國難の時期ではない。 御稜威は猶ほ赫々と四海に輝いてゐる。太平の世に腹を鼓し壤を撃つを吾焉んぞ謗らん哉。寧ろ亂世に驅り立てんと言擧げするが如き徒輩こそ忌ましむ可きであらう。夫れ苟も 聖なる御代を穢すに等しである。而して吾人は來る可き秋に備へ只管日本主義精神の研鑽に勤しむ他あるまい。吾が内なる維新、内なる修理固成を行はずして、 皇道維新を扶翼することなど出來ぬ。美しき梅花を咲かせる爲にも、いまは冬の寒さに耐へ、自らを高める時期ではないだらう乎。

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