一艸獨語(ひとくさのひとりごと)連載その五 時局對策協議會議長代行・同血社會長 河原博史

國學のすゝめ=戰さなき時代での勤皇=

『皇道日報』紙面でも度々散見される〝國學〟とは、云ふまでもなく日本固有の文化・傳統はもとより眞乎たる日本人の精神・思想を明らめようとするものである。隨つて國學を研學乃至發展させるといふことは「日本の文化傳統をまもる云々」と訴へる者にとつて極めて重要事であると云はねばなるまい。何故なら訴へる側がその守る可き對象を充分に知悉理解してをらなければ、如何なる熱辯も竟には詭辯に終はらざるを得ないからである。
思へば第廿六代 繼體天皇の御宇に儒敎入り儒學が蔓延り、第廿九代 欽明天皇の御宇に佛敎入り佛道が流布され(※「日本書紀」による)。彼れら異國人の思想信仰に我れら日本人が追從乃至欽仰するところ甚だしく、固有の文化・精神・思想に感化の及ぼすところ決して少々ではなかつた。
野生は必ずしも日本人の思想界を、恰も無菌状態のカプセルに入らしめ、須らく民族原始の状態に復活せしめんと唱導するものではない。それは民族の進歩と可能性を否定することに他ならず、原來ある可き生成化育の宿命から逃亡するにも等しいからである。それよりも我が民族に潛在されたる能力には頗る大なるものがあることを忘れてはならない。紙の製造技術を輸入すれば和紙を造し世界へ廣告せしめ、ヱンジン・車の製造技術を輸入すれば忽ち日本車が各國の欲するものとなつたことからも解るやうに、我れらは發明の才こそ決して豐富でないけれども、積極的進取を以て發展させるの才に於てはおそらく萬國に唯一と云ふ能はざるも第一であると云うも可だ。然り、それは思想の分野に於ても同樣である。第一今日の開かれた國際社會の坩堝にあつて、外交政策に於ける鎖國をはじめ、日本は精神上の鎖國も思想上の鎖國も今では既に不可能事なのである。よし假りにそれが可能であるとしよう。だが吾人は世界の混亂を橫目に唯一國至上主義に安坐し不義の徒、井中の蛙であることを望む可きではないのである。況や八紘爲宇の 皇業に違背するに於てをやだ。抑々日本人は既に鎖國を經驗し、外氣に觸れずして日本精神を一定の水準まで高めることに成功した。何を以て野生は〝成功〟と認めるか。明治の御一新達成されたるを以て云ふのである。しかしその明治御一新も久しく過ぎた。もしも將來、明治御一新を超克する更らなる維新が必要とされるならば、そのとき我れらの精神思想は更らなる高次へ上がつてをらなければ成し得ぬことゝなる。その爲めに我れらには今日、試練が必要なのだ。古人の曰く「艱難汝を玉にす」と。この艱難がつまり戰後だ。現在だ。壓迫に次ぐ壓迫、屈辱に次ぐ屈辱、この堪へ難く忍び難き戰後を鑑みれば、一層のこと鎖國でもしてみたくならうといふが人情だ。だがこれでは明治御一新前に逆戻りするだけである。戰後を堪へ忍び、今日の試練あつて、はじめて生まれ出づるものゝあるを悟らねばならぬ。その産みの苦しみ、民族の難産を遂げ、日本人は更らなる高次へと上昇する能ふのである。蓋しそれが思想の昇華であり、これが則 皇業の翼贊に繫がり、而 皇運の扶翼へと繫がるのである。
詰まるところ我れら日本人が墨守せざる可からざるの大事とは、一君萬民である國體の大信念に他ならない。迂闊にもこれを失念した者らが集合するに及びなば、憐れむ可き哉、徒らに異國人に向かひ排他的言辞を弄しては自慰するのである。
別言すれば、皇國の大眞相を知悉し確信するある限り、吾人は多いに智識を世界に求め、大に 皇基を振起することが可能となる。こゝに於てか、舊を失ふことなくして新を抱擁する歸一の精神は漸く發揮される。畢竟これが復古維新だ。
そこで須らく留意す可きことは、何でもかでも摂取すれば宜いといふわけではないと云ふことにある。智識を世界に求めるといふことと、精神思想に屈從するといふことは、全く別次元の問題だ。よつて信仰・思想方面に於ける輸入には、こと愼重且つ嚴正なる取捨選擇が行なはれなければならない。この峻別が精確に物されるか否かに就いては、つまり日本人としての大自覺ありやなしやによつて左右されるのである。茲に〝國學〟の重要性が認められなければならない理由がある。

輸入思想の取捨嚴選

野生は一例を左記に掲げる可し。我れらが幕末の志士、吉田松陰先生が萩の野山獄に囹圄の身となつたことは知られてゐる。幽閉された松陰先生は安政二年四月十二日、同囚の爲めに講義を行なつた。講義内容は孟軻の『孟子』である。二个月後、六月十三日の晩からは松陰先生による一方的な講義だけでなく、みなで討論の形式を採りその記録を留めた。これがその一年後に上梓された『講孟余話』である。松陰先生『講孟余話』に曰く、
「たゞその一喜一樂、一喜一怒、こと〴〵くこれを孟子に寓するのみ。故にその喜樂するに當たりてや、孟子を講じてまたます〳〵喜樂し、その憂怒するに當たりてや、孟子を講じてまたます〳〵憂怒す。憂怒の抑ふ可からざる、喜樂の歇む可からざる、隨つて話し隨つて録し、稍く積みて卷を成すもの、すなはちこの著なり」と。松陰先生が如何に『孟子』に通じ、孟軻に共鳴したか、右記のとほり松陰先生自身の告白によつて明らかである。
一方で吾人は、享保文化に生きた國學者、上田秋成翁の『雨月物語』をひもとく可し。些か長文となるが御容赦願ひたい。翁、安永五年刊行『雨月物語』(白峯)に曰く、
「『周の創、武王一たび怒りて天下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む、一夫の紂を誅するなり』といふ事、孟子といふ書にありと人の傳へに聞き侍る。されば漢土の書は經典史策詩文にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子の書ばかりいまだ日本に來らず。此書を積みて來たる船は、必ずしも暴風にあひて沈沒よしをいへり。それをいかなる故ぞととふに、わが國は天照らすおほん神の開闢しろしめししより、日嗣の大王絶る事なきを、かく口賢しきをしへを傳へなば、末の世に神孫を奪ふて罪なしといふ敵も出べしと、八百よろづの神の惡ませ給ふて、神風を起して船を覆し給ふと聞く。されば他國の聖の敎も、こゝの國土にふさはしからぬことすくなからず」と。冒頭にある「周の創、云々」とは、『孟子』の「梁惠王下」文中にある、孟軻と齊の宣王の問答を秋成翁が要約したものである。これに就ては多少の説明を加へておかねばなるまい。周知の通り、支那王朝の交代には「禪讓」と「放伐」との二形式がある。孟子は後者の「放伐」をも是認するものであつた。孟子は他にも『孟子』の「離婁下」で「君ノ臣ヲ視ルコト土芥ノ如クナレバ、則チ臣ノ君ヲ視ルコト寇讐(※仇のこと)ノ如シ」であるとか、同書「萬章下」でも「君ニ大過有レバ則ハチ諌メ、コレヲ反復シテ聽カレザレバ、則ハチ位ヲ易フ」と述べ、君臣の別は必ずしも絶對ならず、事情によつては臣下の簒弑を使嗾するかの如き持論を有してゐた。これが 皇國體と相容れぬばかりか危險思想の種子であるから、『孟子』の書籍を積んで日本に渡來する船はみな中途で神風に遭ひ難破するのだ、といふことなのである。
このやうに、一書一人の思想を輸入するすら、往時の碩學は愼重なる態度で極めて嚴肅に努め、故に時として贊否の異同あるを免れなかつたのである。その贊否とはそれ〴〵が個人的感情によつて左右されるものではない。もとより自説に照らした利害得失によつてでもない。蓋し學問に忠實なるが故に愼重であり、嚴肅であり、贊否の別があつたのである。何にせよその彼れらの學問を支へたものは他ならぬ自身の信念であり、理想であつた。その信念とは先哲にとつて他ならぬ、日本であり尊皇であつたのだ。

國學の本義と研學の不可避

〝國學〟といふ學問そのものは江戸時代の中期に興つたもので、悠遠なる皇國史からみれば決して古いものではない。とは云へそれ以前は學問的體系として確立されてゐなかつたといふだけであつて、意識的にせよ無意識的にせよ、國民意識の底流に脈々と國學の目的とする認識・精神が備はつてゐたのである。それが時代を經て德川幕府が開かれ、儒敎中心の學問・文藝興隆時代に突入し、在朝在野の諸賢にさへも思想及び精神の動揺すこぶる甚大を來たらしめ、かうした時代の趨勢を匡正すると云はむばかりに國學興り、發展していつたのである。それ恰も體内に病原菌が侵入し活動を逞しうするの際には、突如白血球が猛然たる反撃を開始するに似れるのである。
然る後、明治御一新が達成され、おもむろに國學の成長は息みつゝあつた。加へて文明開化と共に輸入された樣々なる西洋の産が、我れら日本人を幻惑した。かうした舶來品のなかには學問及び思想も含まれてゐたのである。山田孝雄先生『國學の本義』(昭和十七年十一月十七日「畝傍書房」發行)に曰く、
「明治維新の當時はまだ國學者の活動が盛んであつたが、その後閒もなく洋化主義全盛の時代になつて國學といふものが、全然國家から亡びよがしに取扱はれ、國學者も亦多くは自暴自棄して語學か考證かを以てその事業としたやうである。こゝに於て自他共に國學を以て語學か考證かの學問と認めるといふ風になつた。そこで準官撰ともいふべき古事類苑さへも國學といふ名目を認めないで『和學』といひ、その和學をば『我國書を講究する學問の謂にして中世以來漢學に對して稱する所なり』など云つてゐる。而して、このやうに國學といふものを輕侮し無視して來る事こゝに四、五十年、その結果現代の世相を導いたものである」と。慘憺たるかな、同時に國内では禁敎令が解かれ、明治六年には耶蘇敎が、同九年には日蓮宗不受不施派が、これら邪宗門の公然天下に放たれたのはまことに痛恨事であつた。
かくして開國當初の目的であつた和魂洋才も、いつしか初志を見失ひ和洋折衷となり、やがては洋魂洋才になり果てた。明治廿七八年、同卅七八年の討淸征ロを頂點として 皇國は又たしても混迷と混亂の方角へ向かうたのは遺憾の極みといふほかない。
だがかゝる情況にあつて人士無いでもなかつた。少なき乍ら國民精神を矯正、恢復せんと志した士はあつた。何よりも危惧されたのは 明治天皇であつたと恐察するのである。眼中西歐を措いて他に無しと云はんばかりの軟骨者が政界の中樞に蔓延り舞蹈會に明け暮れ、或は洋行歸りの曲學阿世が敎育界で重用され敎鞭をとるを以て頗る憂慮遊ばれた 明治天皇は、同廿三年『敎育ニ關スル勅語』を渙發されました。これを奉戴した勤皇の碩學が、國家百年の大計である思想敎育を忽せにす可からざると、今一度國學の發展を試みたのである。昭和十六年三月、つまり戰時に突入した時代下にあつて久松潛一博士は左記のごとく述べてゐる。至文堂發行『國學―その成立と國文學との關係―』序説に曰く、
「日本的立場にたつ學問が要請せられるに及んで、國學に對する關心が高まつて來た。國學再興或は新國學の建設といふことは次第に強くとかれるに至つて居るのである。これはまことに喜ぶべきことであり、新しい國學の建設こそ我が國の學問の眞にかゞやかしい出發點であると考へられるのである」と。この一文を以て多方面を推量すれば、それ以前の學界及び思想界に如何なる空氣が瀰漫してゐたか、吾人は想像するだに六ケ敷くあるまい。而して曰く、
「國學はその方法論に於て、その他の點に於て再吟味を加へられてゆく點のあることは當然であるが、しかし國學の有する日本の本來の精神に立脚する學問としての特質は嚴として一貫して居り、日本の學問の新しい建設と發展との根柢になるべきものと思ふのである」と。つまり國學もまた、舊を失ふことなくして新を抱擁する歸一の精神が發揮されねばならぬのである。こゝでいふ舊とはつまり原點とも初志とも目的とも云ひ換へられる。斯くて中世、儒學が採用せられ重んぜられたのも、これすなはち 神皇の道を扶翼ならしめるが爲めであつたことは、親房大人の『神皇正統記』を一讀しても明らかである。
然らばその初志とは何ぞ。山田孝雄先生、明治四十三年十二月、寶文館發行『大日本國體概論』劈頭に曰く、
「國體の宣明は國學の第一要義なり」と。
今日、街頭で、或は紙上で「大和魂を取り戻せ」と獅子吼しても、或は「支那、南北朝鮮人を叩き出せ」と口角泡を飛ばしても、聞き手は果たして何をどうすれば宜いのか、それが可能であるのか、いづれにせよピンとこないのが本音だらう。宜なる哉、スローガンといふ言葉の羅列や敎條主義では、國民精神や思想は高次へ昇ることが出來ないのである。
意識ある者、志逞しき者らが自から先立ち、洋魂洋才の呪縛から解放されること、こゝを始まりとせねばならない。而して晴れて、皇國固有思想の命脈は再び躍動を開始し、以て「光は東方から」のごとく、今日の世界規模的閉塞状態、混沌を打破解消する使命を成し得るのである。最後に本居宣長大人の詠じた哥を、『玉鉾百首』よりこゝに掲げたい。日の本のやまとをおきてとつ國にむかふ心はなにのこゝろぞ

 

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