吾、皇国に於ける異端審問官也 世界皇化浪人 下山陽太

復刊五号(平成二十六年七月一日)より

只今、愚生は高山彦九郎翁の如く、西国遊説に出て居る。其れは神国日本顕現に向けての同志への周知であり、呼び掛けである。また、各地の同志及び読者諸君の学恩若しくは学徳を吸収する一人旅である。昨今、電子媒体が発達し、皇土津々浦々ありとあらゆる人士と交流が出来るやうになつたが、愚生は直接、其の地域土着の同志と目と目を向ひ合はせて、話すことによつて、知ることが出来ることを無上の喜びとし、今後の思想運動及び信仰研鑽の糧としたいと思ふ。
愚生は原理日本社を率ゐた蓑田胸喜博士を尊敬して居る。何故なら、博士は『文章』を以て、皇国体明徴に挺身し、又、賛否両論があると思ふが、自由主義及び社会主義等の外来思想を排撃した。博士の著書『学術維新原理日本上巻』に曰く、現日本の教育政治社会経済政策を禊祓一洗する、明治維新を補足成就すべき昭和維新断行の生命原理は、この『天地もうごかすといふことのまことの道』であり、その前哨戦は『すなほにてをゝしき大和心』を汚染侵犯せんとする日本精神日本国体の生命の敵、醜き汚い西欧誤謬偽瞞凶激思想に対する『学術維新』の遂行であり、『世界皇化』の先決与件としての日本皇化の『しきしまのみち』学術維新である
日本主義とは、破邪顕正であり、其れは『しきしまのみち』である。日本主義は偏狭な国家主義ではなく、世界皇化、高天原顕現の思想である。日本主義は皇学と同様に戦ふ思想である。国内に於いての日本主義の発露は『神国日本顕現』であり、『神国完成』である。国外に於いては『世界皇化』である。日本主義は単なるイデロギーに止まらず、其れは皇国の使命であり、国是である。
蓑田博士が云ふやうに「教育政治社会経済政策」の禊祓も吾吾が担ふ使命であるが、其れらの根底には信仰が必要であると思つてゐる。其の信仰とは、仏教や耶蘇教と云つた俗悪邪教を信仰するのではなく、皇国唯一の信仰たる本教(惟神大道)に基づくものでなければならない。吾吾右翼は本教の防衛者であり、本教に挑戦的な信仰と戦ふ、異端審問官的な存在でなければならぬ。其のためにも愚生を含め、吾吾は思想探究、そして、信仰研鑽に日々励まなければならない。
大川周明博士の『天照開闢の道』に曰く、「神武天皇建国以前に遡り、天照開闢の本原に復帰して建国の第一歩を踏み出さねばならぬ」、更に続けて、「新しい瑞穂国建立の土台固めを、先ず日本の農村に築き上げたい。私は天照開闢の道から再出発することが、日本再建の最も正しい且つ最も効果的な道であると信ずる」とあるやうに、吾吾は神代回帰こそが次代の復古の根本理念であると思つてゐる。そして、大和民族が本来の信仰を取り戻しさへすれば、皇国の防衛は霊的国防で十分である。古来から、吾吾の先祖を含め、大和民族は目に見えないものを恐れる信仰があつた。しかし、其れは明治御一新に於ける『文明開化』による異国から唯物思想が流入されることによつて、信仰軽視及び信仰忘却になつてしまひ、大和民族が元来、持つて居た霊性を失つてしまつたと言わざるを得ない。しかし、吾吾が皇国本来の信仰に目覚め、覚醒されれば、其れは絶大な力になる。神社掃除に明け暮れる生業神職ではなく、吾吾右翼こそ、思想及び信仰の先導者となり、未だに目覚めて居ない大和民族を覚醒させなければならない。一億皇民の覚醒なくして神国顕現、そして、神国完成は到底不可能である。
若し、吾吾が自民党政治なるものと戦ふのであれば、其れは不可能に近い。何故なら、吾吾右翼も便宜上は自民党と同様に政治団体であり、政治団体は民意に裁かれることで其の役割を果たすことが出来る。民意とは、『多数決』であり、其の結果は問ふまでもない。然しながら、愚生は現状に甘んじろ、と云ふ意味で述べて居るのではなく、自民党の如く、祭政一致や霊性を忘却し、皇国固有の信仰を疎かにして居る俗者を相手にするのではなく、思想及び霊性、そして、信仰を研ぎ澄ませ、信仰者の極北たる殉教者になるべく愚生は日々、鍛練してゐる。殉教者が陣営内から生まれた其の時こそ、自民党を中心とした政党幕府に一矢を報ひることが出来る。更に云へば、愚生の思想や信仰と云つたものは未だ未熟であり、鍛練しない限り、殉教者になることは出来ないであらう。愚生は 天皇信仰の極北と呼ばれた杉本五郎中佐の思想そのものに全く異論なきでもないが、其の生き様は見倣ひたいと思ふのである。
愚生は現今の右翼は岐路に立たされて居るとみる。街宣運動及び示威行進をし、政治運動に生きるのか、其れとも、思想運動及び信仰に生きるのか、といふ岐路である。それは取りも直さず今後の右翼は何を目指すのか、吾吾の子孫に影響を与へ兼ねない重要事項である。因習陋習は断ち切り、取り入れるべきことは取り入れる、其れが必要である。謂はば温故知新だ。現今の御世に於いて神国顕現は不可能であるが、陣営の修理固成こそ、今吾吾右翼は考へる時期ではないか。最後に愚生は復古即神国顕現、神国完成は所謂、在特会等の行動保守市民団体、保守派、政治家では無に等しく、其れは右翼にしか出来ない崇高な使命であると思ふ。
扨て、本題に移らう。
愚生は昨年、民族派並びに新右翼を超克した立場として、神国顕現を目指す神代派を首唱した。神代派の思想は日本主義であり、前述の如く日本主義は破邪顕正である。
現今の御宇は『信教の自由』の名の下に皇国体汚辱及び本教軽視の信仰が跋扈して居る。憲法九条改正に基く軍備増強による国防も必要であるが、殊更、大不敬大反逆の思想及び信仰から如何にして、皇国体を護持し、皇国体徹底明徴をするか、其れこそが思想運動及び信仰に生きる吾吾の務めである。
外敵より 皇土に潜む大不敬大反逆思想を持つ 皇化されて居ない皇民を禊祓する皇化運動をし、君民一体・挙国一致・神人合一の 皇国を建設してこそ、外敵を前にし、皇威は溌溂とされる。君民一体・挙国一致・神人合一の皇国建設なくして、憲法九条改正及び軍備増強の主張は 皇国史忘却であると思つて居る。何故なら、元寇襲来・日清及び日露戦争、米英膺懲戦争(大東亜戦争)はどんな形であれ、君民一体・挙国一致の基で挙行されて居ることを吾吾は 皇国史で以て知るべきであらう。
昨今話題の憲法改正問題には 皇国体が根底になければ無意味であり、為政者の自己満足で行はれてはならない。『皇国学』提唱の鹿子木員信博士は『皇国学大綱』に曰く、「皇国は、実に、天孫降臨に際し、皇祖の降し給へる五大神勅と、神勅の基く、天神の神詔に則り、皇孫、之を肇め給へる国家也。皇国肇造の原理は、実に天神の神詔、皇祖の神詔に存す」と。愚生は 皇神の神勅、更には歴代 天皇尊の詔勅こそが 皇国唯一の統治原理であることから、憲法と云ふ概念は皇国に相応しくないと思つてゐる。更に、日本主義思想家藤沢親雄博士の『日本国家学原理』に曰く、「我国体の下に於ては、皇道による、天皇御親政と、臣道による万民翼賛」と。 皇国の正気溌溂とさせるためには矢張り、天皇親政であり、吾吾が 天皇尊の御政道を翼賛し、君民一体、挙国一致の 皇国を建設することで 皇威が万邦に亘つて宣揚出来るのである。其のため愚生は日本国憲法の改正には断固として反対したい。自民党の如く、時局に流されてはならなず、吾吾は為政者が出来ない神国顕現に只管邁進しなければならない。
愚生は皇国に於ける異端審問官として、今回は幸福の科学及び幸福実現党を批判したいと思ふ。
幸福実現党の目指すべき皇国の姿は『新・日本国憲法試案』に描かれて居る。前文には、われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定するとある。抑々、皇国は神国であり、皇民は神孫であり、神民である。然し、仏の子と云ふ概念は仏魔輸入によつて伝播した概念であり、開闢以来の悠久の皇国史から見ても、最近のことである。また、幸福の科学の総裁たる大川隆法こと中川隆が霊言と称し、其の人物に成り切り、発言してゐるのだが、誰がどう見ても、中川隆自身の考へであり、又、第三者から見ても、出来が悪いイタコにしか見えないであらう。さう、中川隆は憑依する人物を利用し、自らの主張を宣伝してゐるにしか過ぎないのである。中川隆の霊言本なる空話には『日本神道』と云ふ呼称を使用してゐるが、何故に其のやうな云ひ方をするのか、甚だ不思議である。而も、『明治天皇・昭和天皇の霊言』を見ると、中川隆に憑依した 天皇尊は神道のことを『日本神道』と呼ばれてゐるが、歴代天皇尊が『日本神道』と云ふ呼称を使用なされた形跡はない。タチの悪いイタコである中川隆は今や、占領期に話題となつた熊沢天皇と同質であり、其れより悪質であらう。『日本神道』と云ふ第三者的云ひ方自体、皇国唯一の信仰たる自覚がないことを実証してゐる。
更に云へば、愚生は『神道』と云ふより、矢張り、『本教』と呼ぶべきであると思つてゐる。中川隆は懲りずに、「中心指導霊である天之御中主や天照大神系統の、日本神道の中心の流れは、幸福の科学を全面的に支援いたしております」と述べてゐるが、幸福の科学を創立し、また、エル・カンターレと云ふお伽噺的本尊を作り上げたのは最近の話にも関はらず、如何にも達観したが如く、嘘八百の霊言を出版してゐる。幸福の科学の信仰の対象たるエル・カンターレなるものは『古事記』及び『日本書紀』と云つた神典、又、神典の傍系たる『竹内文献』及び『上記』にも記載されてゐないことからも妄想作り話であることは明らかである。また、第一条には、「国民は、和を以て尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。また、世界平和実現のために、積極的にその建設に努力せよ」とあるやうに即ち「仏国土ユートピア」建設にある。幸福実現党は「仏国土ユートピア」なるものの建設のために立党された幸福の科学と表裏一体的存在であることは疑ひやうのない事実である。幸福実現党は『宗教立国』を唱へてゐるが、此の党が唱へてゐる『宗教立国』の宗教とは殊更、幸福の科学を指してゐる。
然しながら、吾吾が云ふ 皇国体に関し、幸福実現党では第十四条に、「天皇制その他の文化的伝統は尊重する。しかし、その権能、及び内容は、行政、立法、司法の三権の独立をそこなわない範囲で、法律でこれを定める」とあり、中川隆は「天皇制を残すことにはメリツトがある」と述べ、更には「ただ、天皇制は、残しておけば、おそらく、万一のときには何らかのかたちで役に立つこと、おそらくあるでしょう」と天●機関説より甚だ質の悪ひ、皇国体思想の持ち主である。抑々、『天皇制』なる魔語はコミンテルン三十二年テーゼに於いて、始めて歴史上に出現するものであり、天皇尊と云ふ御存在を制度と云ふ枠組みに当てはめてしまつたら、其れこそ、天皇尊の神聖性と云ふものを貶めるものであり、世俗的にしてしまふことは明らかであらう。
皇国は 天皇尊の統治遊ばされる国だからこそ、皇国であり、若し、万世一系の天皇尊の御存在を制度にし、天皇制にしてしまつたら、天津日嗣高御座並びに御霊統も世俗的な単なる世襲と云ふ概念になつてしまふ。天皇国日本の面目があつてこそ、皇国であり、仏国人哲学者のポール・リシヤール博士箸(大川周明訳)『告日本国』には、建国以来、一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴せる唯一の民よ、貴国は地上の万国に向かつて、人は皆な一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんが為に生れたり万国に優りて統一ある民よ貴国は来るべき一切の統一に貢献せん為に生れまた貴国は戦士なれば、人類の平和を促さんが為に生れたり、云はば、異国の学者が 皇国体及び皇国の世界に果たす使命即ち世界皇化について述べてゐる。然し、吾吾は現状の皇国体に甘んじるのではなく、万邦に誇る皇国体建設に勤しまなければならない。若し、万邦無比に誇る 皇国体であるならば、万国の国々は 皇国の軍門に下つてゐなければならない。さうでない現状を鑑みれば、皇国体は益々、進化する筈である。 皇国に仏魔が流入したことによつて、皇国は精神的退廃したと思つてゐる。皇国には 皇国の信仰があり、其れは本教たる惟神大道である。然し、吾吾の先祖は蕃神を信仰したがために 皇国に於いては唯一信仰の立場が脅かされ、そして、仏魔に取つて変はられたのである。神仏習合こそが、信仰の不純を巻き起こしたものであり、信仰の清算こそ、必要であり、吾吾は「剣の精神」、そして、『武の魂』を日々、鍛錬し、来るべき破邪顕正に備へる必要がある。

[`yahoo` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
このエントリーをはてなブックマークに追加
[`fc2` not found]
[`livedoor` not found]
LINEで送る