吾、皇国社会主義即高天原主義を標榜す 世界皇化浪人・下山陽太

復刊四号(平成二十六年四月一日)より

皇国は世界皇化を挙行するために肇国された使命国家であり、其の使命を果たすことが 皇国の責務である。世界皇化が貫徹されれば、宗教及び民族と云つた紛争の根源である価値其の物が 天皇尊の宮中祭祀即治国平天下世界安康の祈念よつて、凡てが解決されるのである。しかし、現状は唯物主義憲法(日本国憲法)によつて信仰そのものが軽視されると云ふ風潮が生まれてしまひ、
天皇尊の治国平天下世界安康の祈念を翼賛しようと考へるのは、今や少数派であるが、少数派になることは恐れてはいけない。少数派だからと云つて、保身に奔るのは敗残兵と同じである。明治御一新も当初は少数派であり、其れが 皇土津々浦々に拡がりを見せ、明治天皇による『王政復古』は成し遂げられたことを忘れてはならない。
さて、次なる維新は『神政復古』でなければならぬ。維新は世俗的なものではなく、神意に適つてこそ、維新と呼ばれるのである。其のため、大阪維新の会などの“維新ごつこ”をしてゐるやうな連中が唱へる維新は似て非なるものであり、神意なき維新は革命であると愚生は断言したい。明治御一新は未完の維新であり、次なる維新は明治御一新を継承しつつ、神代に一歩でも近づけられるやうにせねばならない。神代回帰とは、渥美勝先生が述べてゐるやうに『地上に高天原を建設せよ』といふことに他ならない。其の高天原とは搾取なき世界であり、其れは社会主義に相通じるものがあると思つてゐる。愚生は過激派(極左)・左翼が 天○尊打倒と云ふ主張を猛省し取り下げるのなら、今直ぐにでも彼等と共闘する心構へがある。三島由紀夫烈士が全共闘に対し、「君等が一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば僕は喜んで君等と手を繋ぐ」と述べた姿勢は、国家の修理固成を念じる者皆が見倣ふべきであり、愚生は左翼も 神孫皇民であると信じて疑ふものではない。彼等は何処かで皇民たる自覚を忘却しただけであり、其れを 皇化するのが啓蒙者であり、即ち吾吾の務めである。所謂、戦前の左翼に尊皇の心持ちがあつたやうに、現今の左翼も『天皇陛下万歳』と心の底から三唱することは可能であると考へる。現状の皇国の国難は対外的要因に非ずして、云ふなれば我等による思想国難・信仰国難である。其れが一転、治国平天下世界安康の大道に覚醒し、皇化した瞬間に吾吾の思想戦争・宗教戦争は勝利を迎へることが出来る。此れは一代では決して挙行できるものではなく、楠木一族のやうに一族勤皇・挙族殉皇の気構へで闘争をしてこそ、右翼の本旨たる勤皇貫徹の境地に起つことが出来る。此れが宗教戦争及び思想戦争挙行に当たつての気構へである。
愚生が表題に 皇国社会主義(高天原主義)を標榜し、転向したのではないか、と疑ふ同志及び読者諸君が居られると思ふが、愚生は転向してゐないことを先づは声を大にして宣言しなければならない。
先づは左翼が何故、 皇民から支持されないのか。其れは 天○尊打倒を唱へてゐるためであるが、愚生は社会主義の目指す搾取なき国家建設には非常に共感出来るものである。しかし、皇国に於ける社会主義運動が失敗した要因が前述したやうに 天○尊打倒を標榜し、行動したからであるのだが、彼等は 天皇尊を欧米の絶対君主的扱ひし、天皇尊の本質を理解してゐないことが大きく挙げられる。其処で愚生は社会主義を 皇化し、皇国社会主義を唱へ、左右共闘の契機となれば良いと思つてゐる。
皇国社会主義の云はんとする所は 皇民一体となつて、富を生産し、天皇尊に奉還、皇民に分配することにある。皇国で生まれた富は 現人神天皇尊の恩頼(みたまのふゆ)であり、皇民は 天皇尊に感謝申し上げるのが臣民道である。神業翼賛は宇宙・宇内に 天皇尊の大御稜威を行き届かせることである。愚生の云ふ 皇国社会主義は 神業翼賛のための手段であつて、皇国社会主義が目的ではない。私有財産を 天皇尊に奉還し、更に、平等に配給されることで君民一体となることで神業翼賛が可能になり、貧富の差が著しいやうでは、神業翼賛どころではない。行き過ぎた格差によつて、貧者は富者を羨み、富者は満足し、得てして人は不平か驕慢に流されてしまふ。神業翼賛のためには貧富の差を極力無くし、皇民が常、個に執着することなく 神業翼賛に集中出来るやうにしなければならず、財産奉還は大政奉還と表裏一体でなければならない。皇国社会主義の根底には 大国主命が 皇孫に国譲りを行つたやうに奉還の理念が根底になければならない。従つて一部の資本家が儲け、皇民に還元されない現今の資本主義・新自由主義は断乎否定する。
当然ながら国家及び
天皇尊を否定する社会主義は断乎排撃すべきである。未だに『敵の出方論』を採用してゐる日共の本質は 天○尊打倒にあるが、其れを巧妙に隠してゐる。然れども、仮面皇民の巣窟たる日共を 皇国の面目に目覚めた『日の丸共産党』に 皇化することも思想運動に従事する吾吾の務めではないか。
愚生は私有財産制を否定するものではないが、制限を設けるべきであることを主張する。日蓮主義標榜の北一輝著『日本改造法案大綱』にも『日本国民一人ノ所有シ得ベキ財産限度ヲ三百萬円トス』と一定の限度を設けてゐる。北一輝は国家社会主義を標榜し、帝都不祥事件(二・二六事件)に於ける理論的指導者であることは説明するまでもないが、吾吾神代派は挫折するべくして挫折した彼の国家社会主義を標榜するのではなく、神政復古即 神国日本顕現であるため、其の前提としての 皇国社会主義であることを忘却してはならない。抑々、富を生み出す源泉は 皇土であるが、其の 皇土は皇民占有のものではなく、 伊邪那岐命・伊邪那美命の国産みによつて産まれたものであり、其れは天孫降臨によつて 天皇尊が治らすべきものになつたのである。吾吾は 天皇尊から皇民に事依さしされ、其の恩沢に浴してゐると云ふことを能々肝に銘じなければならない。そして、皇民を含む吾吾人間でさへも 皇神の産み給ひしものであるため、日々吾吾は 神恩及び 皇恩に感謝すると云ふ臣民道の情念を忘却してはならないのである。
更に、北は『国家ハ又国家自身ノ発達ノ結果他二不法ノ大領土ヲ独占シテ人類共存ノ天道ヲ無視スル者二対シテ戦争ヲ開始スルノ権利ヲ有ス』と述べてゐるが、此れは卓見に値するものである。現状の世界情勢を鑑みても所謂、欧米を中心とする国が資源欲しさに戦争を仕掛けてゐる状況は果たして如何なものか。
天皇尊奉戴の神立国家たる 皇国こそが、弱肉強食の論理を打破する正義を貫徹する資格を有する国家なのである。世界皇化は 天皇尊の大稜威を宇内に燦爛とさせるものであり、祭祀の理念たるものが『民安かれ、国平らかなれ』であることからも、少数による富独占と云ふやうな弱肉強食の論理と祭祀の理念が相容れる筈がないことは明らかである。行き過ぎの資本主義は清算されなければならず、其のためにも社会主義を 皇国的に純化し、皇国社会主義を作り出し、立替立直即ち 皇国の大手術が必要である。相模の大山阿夫利神社宮司で皇学者の権田直助翁は、

くすり師の神習ふ身
 のかひもなく
 国のやまひは見つヽ
 過ぎてき

と詠んだ。即ち国の病は人の病より小さく、先づは国の病を治さなければならないと云ふ趣旨の和歌であるのだが、此れは 皇朝医道の復権を唱へた翁の面目を如実に表現したものであり、吾吾も 皇国の治療が完遂出来ない限り、宇内の治療は到底不可能である。
皇土で産まれたものは 皇土に還元されるべきであり、其れを専横し、私的に使ふことはあつてはならない。皇土は世界皇化の司令部であり、
天皇尊は最高司令官、皇民は歩兵であることを忘却してはならない。
序でながら述べるが、愚生は先の大東亜戦争敗北は神意であると考へる。何故なら、文明開化による欧米化によつて、明治御一新の根本理念を忘れ、見えざるものの信仰を見捨て、見える信仰たる唯物主義に陥つてしまひ、また見せかけの祭政一致及び 神祇官復興だけでは神意を窺ひ知れることなど出来る訳がない。大東亜戦争を自存自衛のための戦争であり、亜細亜諸国解放のための戦争であることを叫ぶ売文屋が跋扈してゐるが其の本質を掴めてゐない曲学阿世の輩である。しかし、 皇神の誓約によつて導き出された『敗北』と云ふ事実を受け入れることをせず、曲解宣伝するやうなことは神意を否定することになる。そして、再び、間違つた判断を招く恐れがあり、厳密に云へば 皇国は文明開化・欧米化と云ふ道は祭政一致の皇国の本旨に相容れることが出来ないのである。欧米から唯物主義・合理主義・科学主義と云ふ考への発祥地であることからも彼等は目に見えない信仰を捨て、目に見える信仰を重視してしまつたことが分かるであらう。由つて 皇国社会主義は目に見えない信仰と云ふのが根本理念であり、更に云へば神代の御宇こそ、皇国社会主義が施政され、運用されてゐたと考へるのが妥当であらう。皇国社会主義は神代回帰の思想であることを断言すると共に、全国水平社を創設に尽力し、水平社宣言の起草者として知られる西光万吉が中心となつて創刊された『街頭新聞』発刊の辞に曰く、
『農民よ、労働者よ、被差別者よその他全ての被圧迫者よ、街頭にでよ。街頭こそ諸氏を搾取する資本主義を打倒して君民一如、搾取なき新日本を建設すべき勢力を集結する』と。此れこそ、表題に掲げた皇国社会主義の思想的根幹であると述べたい。
最後に愚生は左翼を敵だと思はない。彼等は未だ、皇化されて居ない哀れな皇民であり、吾吾は彼等のやうな哀れみの同胞に対して 皇化を前提とする運動を今後、展開しなければならない。彼等もまた、まがふことなく大御宝なのだ。彼等が 皇民たるの自覚に回帰して、我等は 天皇尊を軸に左右共闘することが出来る。そして、前述したが如く、皇国社会主義こそ、神国日本顕現への道程であり、左右共闘は其の前提である。神国日本顕現は左右共闘してこそ、成し遂げられるものである。左翼の皇化無くして、世界皇化は不可能である。左翼の 皇化は左翼が皇民として心の底から『天皇陛下万歳』と云つた其の瞬間、皇化されたと云へる。愚生は単なる左翼排除は昨今、話題の排外主義と同じであると云へる。同胞を排外しても意味はなく、
皇化を伴はない排外を愚生は断固否定する。皇化と排害は表裏一体でなければならないものであり、此れこそ、皇国的攘夷であると愚生は思つてゐる。愚生が首唱した神代派は『神代の理』を左翼右翼に宣布する役割を担ふものであり、所謂右翼絶望派でも左翼根絶派でもないことは問ふまでもない。愚生は右翼こそ、皇国の在るべき思想及び信仰の熱狂的探求者となり、
皇民の模範とならなければならない。そして、 皇国から右翼左翼と云ふ区分が無くなり、奉皇敬神崇祖してこそ、皇国の復古が行はれる、と愚生は頑なに信じて居ることを読者及び同志諸君等と共有していきたいと思ふ。
本題から逸れるが、愚生の首唱する神代派の此れからの展望を述べたいと思ふ。其れは、
一、反皇国体宗教膺懲
二、信仰報国に依る宗教維新
三、皇国体明徴及び国教(惟神大道)確立
以上、三点であり、神代派は其の本陣でなければならない。そして、吾吾は福田素剣及び浅沼美智雄両翁が挙行しようとした『邪教創価学会撲滅』を単なるスローガンに止め措くのではなく、実際に挙行しなければ 神国日本顕現は不可能であると、断言する。
其のためには皇学探究、熱烈なる 惟神大道の信仰を日々の生活で身に着けなければならない。また、吾吾は神敵に殺されるとも死を恐れてはならず、幽世こそ、本津世であり、現世は仮世であると云ふ先哲の学恩の成果をゆめうたがふべきではない。全国津々浦々の同志諸君よ、桃太郎の鬼退治が如く、顕幽両界で神敵討伐の気構へを万年に亘つて、持ち続けようではないか。

 

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