尊皇とは思想に非ず信仰なり 福田草民

復刊四号(平成二十六年四月一日)より

◆ごく近年、世は右傾化になつたと囁かれてゐる。右傾化の定義は曖昧だが、世間一般に言はれるに、まづは反共である事。売国的言動を許さない事。反日的国家を許さない事。日本の優越性を示す事などが挙げられる。
◆また、右に挙げた主張に当てはまれば、日本の伝統・文化・歴史をまもる「保守(日本)主義的」思想の持ち主であると言ふ事に繋がつてゐるやうだ。しかし反共主義やそれらが日本主義に直結するならば、自民党も民主党も創価学会公明党も資本主義者も基督教も反神仏教日蓮宗も「日本主義的」と定義付けられる。外に目を向ければ、支那台北(国民党政府)や韓国も反共としての盟友となる。言ふまでもなく反共主義は日本古来伝統のものではなく、世界に通用する「ナシヨナリズム」に過ぎない。そこに精神性はないと断言できる。また精神性のなきものは思想と呼ぶ事は出来ず、さらには信仰と言ふには程遠い。思想とは信仰と密接なのである。況や 尊皇を叫ぶ者が反共を叫んできたのは、その経済論や政治論のみを問題視するのではなく、唯彼らが畏れ多くも 天皇尊を階級闘争の一部に位置付けたからに他ならないのである。
◆弊紙も「防共」から「皇道」へと紙名復元したが、反共時代から只それを唱へるものではなかつた。防共新聞時代の「年頭にあたり」では『本紙目的は、たんに防共、滅共にあるのではない。(中略)万邦無比の国体を天壌無窮に擁護し奉らうとすることにこそあるのである。したがつて率直に表現すれば「尊皇新聞」とするのが正しい。本紙目的は断じて防共そのものではなく、滅共そのものでもない、それは 尊皇であり、国体明徴であり、国体擁護なのである。(中略)要するに言はんとするところは、防共、反共、勝共が愛国運動のすべてではないと言ふことなのである。それが、尊皇護国、国体擁護を使命第一義とする場合のみ、愛国となるのだ。我れ人共に純正愛国運動者は、この原点を見失つてはならない。これを踏みはずした防共、勝共運動は、いたづらに愛国戦線に混乱を生ぜしめ、敵を利するに結果するだけである。防共新聞は、正しく防共を掲げこれを叫び続けてゐるが、その唯一絶対の目的は、尊皇である。』と毎年繰り返し訴へてきた。
◆例を挙げれば、反共政党の創価学会公明党の宗祖である日蓮の遺文によれば、曰く「法華経の敵となる人をば父母なれども殺しぬれば大罪還つて大善根となる」曰く「我は釈迦仏の御使なるぞ、僅かな小神である 天照大神正八幡なんぞ我が前に手を合はせ地に伏せ」などなど
皇国にとつて不敬も甚だしい反共政党なのである。かような邪教政党が国政に参入し、与党であること自体日本にとつて恥づべき事なのであるが、反共を唱へてゐる事には間違ひない。
◆かやうに「反共」は思想でもなく信仰でもないことの証明である。
◆翻つて世界の歴史をみよ。同じ悲劇の繰り返しではないか。まさに世界史は「歴史は繰り返す」の言葉がぴつたりである。共産主義もナシヨナリズムもその根本は何の変はりもないのである。鑑みて 皇国の歴史は建国以来、万世一系の天皇尊を頂きて、一瞬たりとも途絶えること無く、進化連続の歴史である。その万国に比類のない 皇国に生まれた事を至上の喜びとし、感謝せねば何の為の日本人だらうか。
◆尊皇とは思想を飛び越えて、信仰に属するものである。
◆よつてこれから来るであらう思想戦とは敵勢力と「力」で戦ふものではない。如何に 尊皇といふ信仰を深め、如何に多く教化できるかといふ己の研鑽なのである。

 

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