戰後七十年目に際して 一赤子 大岩 優輝

皇威四海に輝く二千六百七十五年を迎へ四方の佳節に際し、謹みて 聖代の無疆を祈念しつゝ、皇運の隆盛を頌し奉り候。新年の祝詞に併せて、讀者諸賢の御健勝と御多幸を祈り坐すと共に、昨年に倍して一層の御鞭撻を賜り度く相願奉申上候。

三里塚に見る失はれし敬神生活

三里塚の東峰神社と航空機

三里塚の東峰神社と航空機

扨て、本年は「大東亞戰爭終結ノ詔書」が渙發せられ、ちやうど七十星霜の經つ年となるけれ共、是の間、皇國は正に激動の時代を歩んだと云ふ可きである。
然るに已んぬる哉、刻下日本臣民は毛唐の穢はしき賢しらに惑はされ、皇道翼贊の使命を忘却し、所謂る戰後民主主義にどつぷりと浸かりきつてゐる。夫れ愚生とて例外に非ず、慥かに朝な夕な近代科學文明を恣に、毛唐文化のなかで生きてゐることを認めねばなるまい。如何に居丈高に近代の超克を叫ばうとも、近代科學文明と全く縁無き生活を行ふことは、至極困難であらう。
然れ共、かゝる時代の趨勢にたゞ責めを負はせて、敬神尊皇を忽せにし、近代科學文明を萬能として信奉するのは、正に忌む可き毛唐の賢しらである。日本皇民党の名付け親として知られる畑時夫先生が、「(前畧)いかなる反天○主義者と雖も“米”を主食にし祖先なり父母を持ち、自分も又、米によつて育まれたものである限り、皇神から受けた恩惠を否定するのは、彼らの懷く空漠たる一片の觀念的思考に過ぎないと觀てをります」(『週刊金曜日』平成六年二月廿五日號より)と喝破せられたやうに、右翼も左翼も 天神地祗の 恩頼を受けざるものは何人もをらず、生きとし生ける凡てのものは、神孫皇民であると云うて何の躊躇ひがあらう。
嘗て三里塚鬪爭の折り、農民放送塔の垂幕に掲げられたる、「日本農民の名において收用を拒む」と云ふスローガンは、彼らが無自覺乍らも神孫皇民たることを、明らけく示してゐる證左である。其れ、乞食百姓の集りと一蹴することは出來ぬ。
何となれば嘗て三里塚には御料牧場があつたためか、夙に尊皇精神に篤く、殆どの古老の邸には、床の間に御眞影が飾られてゐると云ふ。亦た東峰神社・所有權移轉裁判の公判に於て、原告團の一人、萩原進氏曰く、「鎭守の杜と云ふ言葉どほり、社殿と境内、立木は一體のもの。部落の産土樣を破壊することは、村を村として存續させないとするものだ。私は立木伐採に抗議して逮捕されたが、部落や多くの人の激勵を受け、正しかつたと確信してゐる」と。更に川嶌みつ江氏曰く、「原野をとんび鍬ひとつで開墾した當時は神社もなく、道陸樣(道祖神)に手を合はせてゐた。部落總出で建てた神社の土地を、勝手にお金で賣り買ひするなんて信じられない」と。立場こそ違へど、愚生は東峰神社に集ひたる農民らに、見習ふ可きところ多しと思ふ。

部落差別は反國體的矛盾

水平社博物館となりの神武天皇社

水平社博物館となりの神武天皇社

先づ以て戰後歪められたるもののなかで、殊に所謂る部落解放運動は、斷じて目を逸らしてはならぬものの一つである。
片岡駿先生が『維新政權への戦略構想』に於て、「このやうな被差別社會の存在が一君萬民の國體的理想において許すべからざる矛盾であることは明白で、徹底的に解決しなければならぬ」と喝破せられたやうに、部落差別は一君萬民の國體に悖る反國體的矛盾であり、譬ふるならば、四海を普く照らし給ふ 天津日影から、一部の民草を覆ひ隱すが如き蠻行と云ふ可きであらう。
抑も部落解放運動の源流たる全國水平社は、熱烈たる すめらみこと信仰の結社であつた。『水平社設立趣旨』に、「遠く明治四年八月法律の發布とともに、明治大帝が御仁慈の下に、四民平等の名によつてその不合理なる階級的差別は撤廢されたのである。しかれども、古來凝結したこの歴史的の傳統は、一片の法令を以つてよくその根底を破壊しえるものではない。徳川幕府が強いた嚴格な階級的社會政策の效果は、今もなほ強くいはゆる特殊部落民賤視の社會的感情として殘り、恐ろしい拘束力を發揮し、直接間接、我らが社會的經濟的位置の獲得を阻害し妨害しつつあるのである」と述べられてゐるやうに、水平社は舊弊な封建體制を批判しつゝ、明治天皇の解放令に熱烈たる感激を抱いてゐたことが窺へるのである。
亦た水平社の前身である燕會は、神武天皇が國見をされた本間山を開拓し、解放令が公布されて五十周年に當たる日に、神社を建立したと云ふ。更に西光萬吉氏が紫朗と云ふ名前で「私は 先帝陛下の有難い御所存に感泣するものである。 先帝は吾々の汚名を御廢止下さつた。そこで吾々は解放運動に力強くなつたのは眞實である。(中畧)汚名廢止は 先帝が吾々への激勵の叱咤である。それは吾々背後より自由の爲めに勇敢に鬪へとタイタンの叫の如く鳴り渡る」と云ふ文章を認めてゐることからも、解放令が彼等の部落解放運動の竝々ならぬ原動力となつたことが斷言出來る。各地の水平歌でも、解放令を讚へたものは枚擧に暇がないのである。
先般、大日本愛國團體聯合・時局對策協議會の先輩である、熊本愛郷新聞社・鈴木田舜護代表が、「ボシタを取り戻す運動」として、部落解放同盟らによる「ボシタは差別だから使ふな」と云ふ傳統破壊に對し、果敢に挑まれたけれ共、解放同盟にはもはや水平社に見られるやうな すめらみこと信仰は微塵も見られぬ。否、夫ればかりか、無頼の徒と結託して利權を貪らむとする、拜金主義集團となつてゐると云うて過言にない爲體らく振りである。
然るに片岡駿先生が前掲した著書に於て、「我國における一般國民といはゆる未解決部落の人々との關係は、アメリカにおける白人系國民と黒人、あるいはイギリス人とアイルランド人の間に見られるやうな關係と違ひ、兩者の間に本質的な對立の理由がある譯ではない。國民の凡てがどこかで血のつながつてゐる同胞なのだ。國民の總意によつて解決出來ぬ筈はない」と喝破せられたやうに、西光萬吉氏が昭和十三年發行の新生運動第八號で述べた、「今や我らは“人間に光あれ、人世に熱あれ”の願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に邁進せんとするものだ」と云ふ一文の如き、本來ある可き姿に部落解放運動が囘歸した時、本當の意味での部落解放が初めて實現さるゝものと、愚生は信じて疑ふものではない。

自己ヘゲモニーの確立

三里塚鬪爭も然りであるが、部落解放運動も本來、民族派陣營の云はゞ專賣特許であると愚生は考へる。戰前の部落解放運動には、高畠素之、穗積五一、毛呂清輝、津久井龍雄と云つた陣營の諸先生方が關はつてゐたし、亦た脱原發運動にしても、「麗しき山河を守れ」と云ふ觀點で、新右翼は夙い時期から取り組んでゐた(昭和五十四年の『レコンキスタ』第四十四號に、「反原發理論合宿」と題し、あの浪江町に於いて原子力發電の危險性に關する講座と、反原發の街宣及びビラ配りを行なつた記事が載つてゐる)。にも關はらず敢へて「右からの」脱原發と云ふ必要などないではない乎。
元アナキスト高校生聯合全國委員長の千坂某氏がツイツターで「右翼の最大の弱點は、常に左翼に對する單純な反對的對應でしかなく、自己ヘゲモニーによる自主性の觀點に缺けるところだ。左翼がやつてゐるから反對といふのではなく、右翼がヘゲモニーを握ればいいだけなのだ」などと宣うてゐるのは、當たらずとも遠からずであり、あらゆる諸問題は左翼ではなく右翼が道彦となる可きものが極めて多い。時に新右翼を自認する者のなかには、左右の超克を唱へ、ともすれば左翼に阿るが如き賣文屋もゐるけれ共、本末轉倒も甚だしき話である。左翼に連帶するのではなく、左翼を 皇化させつゝ、主導權を握ることこそ、吾人の目標だと斷言する。

「忠良なる臣民」を目指して

忝なくも 先帝陛下はしばしば詔敕に於て、我等赤子を「忠良なる臣民」或は「忠誠勇武なる臣民」と仰せ遊ばされた。斯くも有難き譽れはないけれ共、果して現代に生きる吾人は、「忠良なる臣民」と呼ばるゝに値ひする存在であらう乎。他者に問はれ、昂然と胸を張つて「吾は忠良なる臣民たり」と肯んずる能ふる者が、愚生の如き若輩は勿論のこと、陣營内にゐるだらう乎。況んや一般國民に於てをや。
愚生は陸羯南先生の「我且に仙盆の雪を飽喫し、吐いて文章となして鬼神を驚かさんとす」と云ふ言葉を胸裏に刻み、何時しか「忠良なる臣民」と呼ばるゝに値ひする一赤子とならむことを目指し、甚だ遲筆にして亂文乍ら、文章報國を續けて參ることを宣言す。
※画像上水平社博物館となりの神武天皇社。画像下・三里塚の東峰神社と航空機

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