比国の戦争博物館に感謝 磯和典

復刊四号(平成二十六年四月一日)より

早いもので、東日本大震災から三年が経つた。東北でも大分復興が進んでゐるやうではあるが、未だ仮設住宅でご不便をされてゐる方々にはお見舞ひ申し上げます。また、亡くなられた方や行方不明の方々にはお悔み申し上げます。
カミカゼ博物館
フィリピン1 さて、三月某日、私が青年会議所時代の仲間たちと作つた「NPO法人日本領土領海戦略会議」の有志数人とフィリピンに行つて来た。今回の目的は「カミカゼ博物館」と「戦争資料館」である。両方ともフィリピンの方が作つて自分で資料を集めたり、来客者が寄贈していつた物が展示されてゐるらしい。私は、外国人がそのやうな貴重な資料等を集めることなんて出来るのかと不信に思つてゐた。今回で三回目のフィリピンであるが、昨年の台風のおかげでより一層治安が悪くなり、首都マニラに於ては、一月くらゐに神奈川県の後輩が一人で街を歩いてゐた時、八人に囲まれ襲はれたさうだ。彼は幸ひにしてたいした怪我を負ふことはなかつたやうだが、矢張りマニラ在住の高校の先輩に聞くところ、そんな行動は自殺行為だと云ふ。以前から、日本と違つて物騒なことは知つてゐるが今回はより気を引き締めて行かうと皆で結束した。
フィリピン2まづ、訪問した場所が、フィリピン人で、幼少のころ大東亜戦争が勃発し日本軍の将兵たちと出会ひ、その時の日本兵の雄々しさや荒々しさの記憶から、大学卒業後歴史に興味を持ち、特に「神風特別攻撃隊」の精神に心を打たれ、神風特別攻撃隊が史上初めて飛び立つた、以前も訪問したマフィリピン3バラカットに記念碑を立たれた 「ダニエル・H・ディソン」氏が自宅を改装して作つた「カミカゼ博物館」である。情報によるとディソン氏は現在八十四歳で体調が悪く療養中だと云ふ。実際に訪問してお会ひ出来るかどうかは、我々の運と気概だけであつた。 実際に現場に到着すると、門は固く閉ざされてをりやつてゐる様子はない。外観だけで見るととても博物館とは思へない、ただフィリピンの個人宅にしては立派な建物だと云ふ初見であつた。このまま帰るのではあまりにも子供の使ひ以下なので、恐縮だはあつたが勝手に門を開け、呼び鈴を鳴らしたが、これも人気がない。しかし数分後、お手伝ひさんらしい方が出てきてくれ、言葉の解る仲間が話したところ、矢張りディソン氏は入院中でその娘さんが管理してゐるらしい。なんとか必至で頼み込み、その娘さんに聯絡をとつて貰へた。すると、幸ひにして近くにゐたやうでこれから来てくれると云ふ。我々の気持ちが通じてホッとしたところであつた。
フィリピン4十分もすると、ディソン氏の娘さんが到着し、改めて我々の意思を説明した。すると娘さんは、気持ちよく開門してくれ、中を見学することを許可してくれた。入館する前に我々の気持ちを了承して戴いた娘さんに、当NPOからの感謝状と日章旗、それと
天皇皇后両陛下の御真影をプレゼントした。(写真上)これには娘さんも甚く感激して、ゆつくり中を見学させてもらえることになつた。実際中を見学させて戴いて、思つたより規模は狭かつたが、日本軍兵士が、これからゼロ戦に乗る瞬間の写真や整列してゐる写真、戦闘服や当時の軍靴、水筒など我々の心を震はす物があつた。これらの物や写真に対し、我々は黙たうをささげた。しばし、観覧しディソン氏の娘さんと話をした。現在ディソン氏は矢張り闘病中で週三回ほど人工透析をしてゐるさうだ。この先、この貴重な資料館がどうなるのか、娘さんも解らないやうだが、なにかしら我々のNPOが協力することを約束し、固い握手をし、ディソン氏のご健康を祈念することを伝へ現場を去つた。
フィリピン6戦争資料館
その後更に移動し、次は、フィリピンの青年会議所出身の方が、矢張り自費でやつてゐる「戦争資料館」に向かつた。話によると次に行く資料館は、先の「カミカゼ博物館」とは違つて、アメリカ、日本、フィリピンの関係の物が展示されてゐるやうだ。ただ、ここも、聯絡先も解らないので「カミカゼ資料館」同様、やつてゐるか、人がゐるか賭けであつた。ただ、仲間全員が「我々は運を持つてゐる!」と変な自信もあり現場へ向かつた。途中、以前にも訪問した「カミカゼ・イースト」があり、皆で敬礼し先を急いだ。到着すると、そこには、日米比の三ケ国の国旗が掲揚されてをり、戦争資料館の割に暗い雰囲気はなかつた。
フィリピン7門も開いてをり入つてみると、使用人が出てきて趣旨を説明すると創設者である、ロニー・デラクルーズと云ふ青年がその人物である。話をしてみると、彼もバンバン市の青年会議所理事長経験者らしく、我々も日本の青年会議所出身で、平成二十一年に作つたNPO法人としてロニー氏が作つた資料館に対し、感謝状・日章旗をプレゼントしたいと伝へたところ、感激して戴き中を拝見させてもらつた。「カミカゼ資料館」と少々違ふのは、国旗掲揚にもあつたやうに日本軍だけを特化してゐるわけではなかつた。しかし、日本語で「魂の休息 霊魂の安らぎ 英霊の安息」と書かれた石碑が、ここでも我々の心を揺さぶつた(写真中)。「神風」と書かれていあであらう千切れた旭日旗があり、矢張り大東亜戦争時の写真や機関銃、小物が展示されてをり、特に目を見張つたのが寄せ書きがしてある血染めの日章旗であつた。話を聞くと、以前に父親が米軍人で、戦争当時日本兵を射殺し、その日本兵が持つてゐたものを、この資料館の話を聞いたその米軍人の娘さんがわざわざアメリカから持つてきたと云ふ。
私は、この血染めの日章旗をなんとか日本に持ち帰り、靖国神社に奉納したい衝動にかられた。初対面でいきなりそれを要求するは、さすがに厳しいと思ひ、しばし談話した。話の中でもロニー氏は、南沙諸島の件で中共に対して相当立腹してゐると言つてゐた。現在フィリピンでも中共資本が相当入つて来てをり、わが物顔でフィリピンを動かさうとしていりやうだ。また、韓国資本も巨大でフィリピン人を虚仮にするやうな行動をとつてゐるやうだ。どこの国に行つても、中韓は嫌はれてゐるのかと思ふと、ついつい我々も熱くなり語尾が強くなつた。話の最中のコーラを御馳走になり一段落したところで、言葉の解る仲間に、血染めの日章旗の話をしてもらつた。英訳するにはたいへんだつたとあとで仲間に言はれてしまつた。ロニー氏は我々の気持ちを汲んでくれたが、さすがに初対面であるし、今日は渡すことは出来ないが、いづれこの日章旗を日本の靖国神社に届けたいと約束してくれた。また、本年六月に靖国神社を訪問するとも言つてゐた。
まづは、我々の気持ちが通じ、靖国神社で再会する旨の約束をした。少し期間はかかるであらうが、なんとかこの日章旗を靖国神社に持つて行き、遺族会に渡すことが出来れば、当NPOも立派な仕事をしたことになるだらうし、日本男児としてこのままにしてはおけないと云ふ気持ちが自分のなかでも強く感ずるものがあつた。 今後も情報交換することと先にも述べたが再会を約束し、現地をあとにした。
日比友好
フィリピン5翌日は、マニラに在住の高校の先輩と会ひ、フィリピンの現状やマニラの危険度合、マニラ市内を案内して戴き、夜は皆で直会を行つた。楽しいひとときであつた。
今回の訪問で、いかに日本がアジア諸国で偉大な働きをしてゐたのか、フィリピンからすれば占領国と思はれるが、それでも戦争当時から尊敬されてゐたと云ふことを、日本人として誇りに思ふし、これからもアジアは勿論世界にも偉大なる日本人が示してきた歴史探索をしていく所存である。(参考資料:フィリピン少年がみたカミカゼ・著者ダニエル・H・ディソン・桜の花出版)

 

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