(木曾路今昔)皇妹・和宮様御降嫁と街道筋 塩尻市・平澤次郎

復刊六号(平成二十六年十月一日)より

塩尻は古くから交通の要衝で、戦国時代は武田信玄の信濃攻略(深志・小笠原氏攻略)の拠点となり、江戸時代に入ると中山道、三州街道、善光寺街道の宿場町として栄えた。今年は塩尻市内にある 「塩尻」「洗馬(せば)」「本山」「郷原」の四宿が開宿四百年の節目を迎へることから、市をあげてこれを祝ひ、十月には「皇女・和宮様御下向行列」が華やかに催される。

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木曽福島の関所跡。日本四大関所の一つで、中山道の要衝として「入鉄砲に出女」に目を光らせた

はじめに
私事で恐縮だが、六月の末、橫浜から塩尻市に居を移し、信州の田舎者にもどつた。長野は郷里と云つても、塩尻には縁もゆかりもなく、まつたく見知らぬ土地。義父の建てた家が空き家となり、この家屋を借りたと云ふ次第である。
その義父も塩尻に縁はなく、長野営林局を定年退職した際、役所の斡旋で土地を購入したのが縁である。
義父は美濃・瑞浪の出身。旧制岐阜高等農林学校(現岐阜大学)を卒業後、判任官として帝室林野局(宮内省)に奉職、名古屋地方林野局から木曽地方局に転任した。
御料林(ごりようりん)、すなはち、皇室所有の森林、更には、式年遷宮にもちゐる用材(木曽五木=ひのき・さわら・かうやまき・あすなろ・ねずこ)などを管理する役人である。
幕末まで木曽地方は尾張藩領であつて、雑木以外はすべて藩有林、人々は森林の中で暮らしてゐても自由に使へる木は一本もなく、むしろ、「木一本伐れば首が飛ぶ」と木曽代官から厳命されてゐた。
明治維新後、尾張藩林は農商務省山林局の管轄となり、明治二十二年、木曽の官林はすべて御料林(皇室財産)に編入され、宮内省の所管となつた。
当時の木曽林野局は、ドイツの最尖端林業技術を取り入れ、造林技術、森林保全、伐木輸送等、最高の水準にあつたと云ふ。
インターネットで「帝室林野局職員録」(昭和十八年七月一日版)を検索してみると、義父は「薮原出張所の技手」とある。
「林野局の職員は今で云ふエリート官僚で、黒の詰め襟制服に肩章、白手袋を着用し、短刀(サーベル)を下げてゐた」(木曽の古老)。
近衛聯隊の二等兵でも、家柄、前歴、学業成績、思想など細目にわたつて調査された時代である。 天皇陛下に直結する官吏の登用となれば尚更で、厳重な身辺調査が行はれたことは想像に難くない。その故に、彼らは選び抜かれた臣下と云ふ強い誇りを抱いてゐたやうで、その優越した意識が庶人には「威張つた役人」と映つたやうである。ご多分に漏れず義父も威厳を保つて職務に精励したやうだ。
だが、終戦を境に一変した。昭和二十二年、御料林は、GHQの指令で廃止されて国有林となり、帝室林野局も「農林省林野局(後の林野庁)」に編入されてしまつた……。 義父は一介の国家公務員に〝格下げ〟されたが、しかしその誇りは戦後も保ち続け、駒ヶ根営林署長時代、決裁には厳正を極め、謹厳実直に過ごして長野営林局に転属、まもなく停年を迎へた。

木曽代官山村氏

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木曽街道「奈良井宿」の図。険しい鳥居峠の下り口から奈良井川沿ひに、約一キロにわたつて町並みを形成する日本最古の宿場

島崎藤村は「夜明け前」で〈木曽路はすべて山の中である〉と書き出したやうに、木曽は深い山と谷の中にある。
愚妻は帝室林野局の木曽福島官舎で生まれ、戦後の木曽福島小学校へ通つた。同校は木曽代官だつた山村氏の屋敷跡の一角に建てられてゐる。
「山蒼く暮れて夜霧に灯をともす。木曽福島は谷底の町」と詠まれたこの町は、木曽義仲の城下町として発展し、義仲が近江(滋賀県)で討ち死にすると、義仲の子孫と称する木曽一族が支配し、武田、織田、豊臣、徳川の勢力圏と変遷しても巧みに時の支配者に取り入つて温存をはかつた。
木曽義昌の代に至り、徳川家康が江戸に幕府を開くと義昌は国替えとなつて上総国へ移つたが、まもなく死去して木曽氏は断絶した。
木曽氏の家臣だつた山村氏も、戦乱の世を巧みに渡り歩き、山村良勝は家康に接近して関ヶ原と大阪冬の陣で戦功を立て、美濃五千七百石の領主となつたが、嫡男の七郎右衛門良安(たかやす)の代に木曽地方が尾張藩領となつたことから、徳川義直の家臣となり、七千五百石を賜つて木曽の代官に命じられた。
昭和二十七年、名古屋城の修理が行はれた際、本丸と東西の隅櫓(すみやぐら)の土台個所、破風板(はふいた)に「山村七郎右衛門」の名があり、慶長十四年の築城には、木曽材が大量に使用されたことが明らかになつた。
寛文十一年、尾張家の総石高は六十五万三千石だが、この内、木曽は材木代として七万三千二百三十一石四升と計上されてゐる(「名古屋城年誌」・名古屋城振興協会発行)。 木曽の関所は、福島と贄川にあり、日本四大関所(箱根・新居・碓氷・福島)のひとつ。その関守(せきもり)が代々世襲して明治二年まで二百七十四年続いたと云ふのは特異なこと、その権勢は広大な屋敷跡からもうかがえる。
福島の関所は木曽川から三十㍍ほど切り立つた崖の上にあり、背後にそそり立つ山を削つて道路としたが、道幅は極端に狭く、難攻不落の要害となつてゐた。万が一、敵の侵攻を防ぐことができなければ、宿場に火を放ち、関所と道路を木曽川に落として通行を不能にする手はずになつてゐた。 元治元年十一月末、中山道を西上した水戸天狗党は、下諏訪から伊那(三州街道)に折れ、木曽・妻籠宿に出て美濃へ入つた。彼らは木曽路を迂回したのである。
その理由は、同じ徳川親藩の尾張との戦闘は避けたいこと、木曽の関所を強硬突破するには、道路や橋を川に落とされ、長期足止めを覚悟しなければならないことなどであらう。

和宮様の御下向

第十四代将軍(徳川家茂)の御台所として御降嫁された和宮様は、文久元年十月二十日(旧暦)、桂御所を御出発、中山道を御東下された。
攘夷派の妨碍を防ぐため、身辺の警護は厳重を極め、随行者は朝廷方約一万、幕府方約一万六千。更に諸藩の警備兵、人足を含めると五万人以上、その行列は平坦な道でも十二里(約五十㌔㍍)に及び、本隊通過に四、五日かかつた。
木曽路は急な峠や木曽川・奈良井川に沿つて這ふやうに続いてをり、道路幅はせまく、その上敵の侵攻を防ぐ「枡形(ますがた)」や「鍵の手」がほどこされてゐて、行列は八十㌔以上に及んだ。 御一行の先触れが木曽に到着したのは十月二十九日。この日、和宮様は中津川宿にお泊まりになり、次いで、木曽路に入られて三留野宿・上松宿・薮原宿と御泊まりになり、十一月四日には奈良井宿で御小休、贄川宿で御昼、本山宿で御泊まり、翌五日には、洗馬宿で御小休、塩尻宿で御昼を取られた。これが塩尻市の宿場町を御通過された記録である。 木曽路の各宿場では八月から奉迎の準備に入つた。道路幅(六尺=百八十センチ)の改修、小石の取り除き、窪地には砂を入れる補修。街道脇に生えてゐる雑草取り、橋の補強、御与や大傘の御通過に邪魔となる雑木の枝切りなど、更に、通路から見える墓や厠は緑の若葉で覆ひ、朽ち果てた廃屋や見すばらしい民家などは、取り壊しや修繕(費用は月賦返済)を行つた。
これらの使役や御通行の際に荷駄を運ぶ人馬は、近隣の助郷村から徴発されたが、人足ならだれでも良いと云ふ訳ではなく、大酒飲みや粗野な者、身元がはつきりしない者などは不適とされた。
記録によると、御一行は木曽十一宿を三継ぎで御通過され、一継ぎで延べ人足が二万二千五百八十七人、伝馬が延べ六百六十九疋が動員されたと云ふ。
御与の御通過に当たつて、幕府は住民に厳しい通達を出した。前後三日間の遊興禁止、売り物禁止、見苦しい物の撤去、牛馬犬猫は必ず繋いでおく事、寺院の鐘、猟銃撃ち、笛太鼓などの鳴り物禁止、御行列を高見から見てはいけない。物陰からのぞくこと、女子供は家の中にゐることなど、細部にわたつた……。
塩尻市広報によると、十月二十六日に行はれる「皇女・和宮御下向行列」の配役は、和宮(一人=中学三年生)、旗持ち(三人)、太鼓(二人)、先払ひ(二人)、警固侍(六人)、近習(六人)、奉行(二人)、上臈(一人)、傘持(一人)、武官(二人)、公卿(四人)、庭田嗣子(一人)、大傘持(一人)、与丁(八人)、女官(二十人)の十五役、六十名。主として小・中・高生から選ばれるが、和宮様役に抜擢されれば賞金十万円、二次審査に選ばれた中から若干名に賞金三万円。この他、自作・自前の衣装で参加を希望する市民には、審査の上採用を決めると云ふ。
「公武合体」と云つた政治上のややこしい話はさておき、和宮様の御旅装は沿道の民衆にとつて、まるで平安絵巻を見る思ひであつたに違ひない。〈みやび〉とは、厳かで、侵しがたい気高さ、上品さである。その衝撃と感動が、今も大衆の中に息づいてゐる。

 

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