和氣清麻呂公(天平五年~延暦十八年※西暦七三三年~西暦七九九)の生きた時代は律令制度の完成を基に、代々の 天皇が律令政治に精を出した奈良時代である。
清麻呂公の生まれは備前國藤野郡(岡山縣和氣郡和氣町藤野)姉廣蟲は天平二年に生まれ、天平五年弟清麻呂が生まれてゐる。父は乎麻呂(オマロ)で大領(郡の長官)であつた。清麻呂公や廣蟲が都へ上り仕官するやうになつたのは、もともと律令の規定によつてであり、當時のきまりとして郡司は息子や娘を朝廷に貢進する義務があつた。息子は兵衞トネリとして娘は釆女ウネメとしてである。兵衞は都の内裏の護衞兵、采女は都の宮殿の侍女である。各都が一人づつ出すが兵衞と采女の割合は三對一で采女を出した郡は兵衞を出さなくてよいことになつてゐた。藤野郡司だつた和氣氏は廣蟲を采女として貢進した。廣蟲は天平十六年年一五歳のとき都で葛木連戸主カツラギノムラジヘヌシと結婚してゐる。當時采女には容姿が美しく心根がよく、頭のよい者をえらんだ。現代式にいへばミス備前である。采女は三、四年で年があけて歸郷し、他郡の郡司クラスの家へ嫁ぐのが常習であつたが、廣蟲はこれと異なつた。いち早く後宮の役人だつた戸主に見そめられた上に、器量を認められて女官(女孺ニョジュ)に取り立てられたのである。ところが廣蟲の女官昇進により、藤野郡からは采女も兵衞も出してゐない無貢進の郡になつてしまつた。そこで郷里にゐた三歳下の清麻呂公が兵衞として上京することになつた。
上京後廣蟲は後宮へ仕へ清麻呂公は兵衞府へ勤めた。結局姉弟そろつて官人の道を歩むことになつたはけである。兵衞も一定の義務年限が終はると歸郷し、出身郡の郡司につくのが常道であつたのに、清麻呂公はさうはしなかつた。男性では、采女の場合と異なり上司に氣に入れられたしても、すぐには官人には取り立てられない。官人採用の試驗をうけ、それに合格しなくてはならない。上昇志向の強い者はそれに挑戰し正式採用をかち取つたが、清麻呂公もその一人であつたのである。彼自身が旺盛な上昇志向にもえてゐたとしても、當時は「氏と身分」に基づく差別にはばまれて實際出世の高は讀めてゐたのである。しかし彼には開運の一縷の望みがあつた。姉廣蟲がすでに後宮で皇后に認められ、今また女帝の側近女官として腹心となつてゐて、その取りなしが期待できたからである。天平十八年年藤原仲麻呂の亂は都でおこり、吉備眞備、清麻呂公、廣蟲らは女帝(そのときは孝謙上皇)の側について戰ひ、眞備の用兵のうまさで仲麻呂をわけなく打ち倒した。その功により翌年吉備眞備は從三位勳二等、廣蟲は從五位下勳六等、清麻呂は從六位上勳六等をうけた。清麻呂公が最初に歴史に姿を現すのは「續日本紀」のこの記事である。
この一年後に岡山縣出身の吉備眞備は右大臣に進む。廣蟲は七六八年從四位下に進んだが、このとき清麻呂公との差は四階も開いてゐた。女官の場合は官職と位階の制は適用されず淮用といふことになつてゐたのであるが、彼女はすでに進守大尼位に補されてをり、女官のいはば首坐格であつた。廣蟲への厚い待遇は一に女帝の信任によるが、これが清麻呂公の破格の出世をもたらしたのである。
清麻呂公の先の從六位上勳六等敍勳のときの彼の官職は右兵衞少尉であつた。少尉は律令の官位では兵衞府の三等官で普通正七位上があてられる。清麻呂公は位階で二階上の待遇をうけてゐる勘定だ。彼はこのとき三三歳であつたが、最初兵衞になつたときを一八歳として一五年が經過してゐた。年少なので少初位下といふ一番下の位階から出發したとして、從六位上までに一三階ある。大臣など高官の子の場合は蔭位の特權制度があつて、任官のとき高い位階がもらへる。あとはとんとん拍子で昇進できる。郡司の子は都のいはゆる大學に入る資格、兵衞・舎人になる資格はあるが、蔭位の特權などない。役人は當時みな四年に一度勤務評定があつて合格すれば一階昇進することができる。今、これを清麻呂公にそのまま適用すれば一八歳から勤め始めて從六位上に進むまでに五二年を要する計算になる。彼は三三歳で從六位上の位階をえてゐるのであるから、これまでの一五年間に何囘も特別昇進の禮遇をうけたことになる。
もちろん清麻呂公の能力の高さもあつたにちがひないが、姉廣蟲の存在は絶大であつたであらう。順風滿帆に見える和氣氏であるが、この四年後に命懸けで天壤無窮の神敕を守る「道鏡事件」がおこるのである。つづく
參考文獻 岡山文庫仙田實著