第一章 徳川時代以前に於ける国学
第五節 神道
●神道は本来神社の崇祀に関する習慣的の儀礼であつて一つの道徳教でもなく亦一つの学説でもない。神道が実際問題として研究せされるやうになつたのは徳川時代の復古神道派からである。
●鎌倉時代から神道哲学が現はれてゐるが、後の国学者からすれば一種の邪説であつて、その邪説を是正するのが国学の発達であり、任務であつた。しかし相通ずる物もあり「日本と言ふものの尊重すべき所以と闡明しようとする事と、神代の文化を説かうとする事である。
●神道五部書は奈良朝以前に著せられたといふが、鎌倉時代に作られた外宮の神官による偽書である。外宮と内宮を同等にする為の野心で、外宮は水徳に依つて立つたもので、内宮は火徳に依つて立つてゐるとし、水は火に克つと云ふ支那の五行相克の説を採つたのである。
●伊勢神道は北畠親房の神道説や五部書の影響があり、吉田神道も山崎闇斎の垂加神道も五部書の説に負ふ所が多い。闇斎が垂加神道と名付けたのは五部書にある。
神垂以祈祷為先冥加以正直為本
の語から取つたものである。
●鎌倉時代の神道説としては、日蓮の思想を基礎とした法華神道が芽生へ、三十番神説は広く論ぜられてゐた。
●真言宗の両部曼荼羅と神祇を結びつけた所の三輪神道又は御流神道=両部神道は鎌倉時代には幾分の発達があつた。
●戦国時代に全盛を極めた吉田神道の萌芽も鎌倉時代にある。
●南北朝時代の初め伊勢神道と天台宗の宗旨を交へた神道説(豊芦原神風和記)や国体の尊厳を説いた神皇正統記が出た。
●室町時代には法華神道、山王神道、両部神道も良い意味での発達はしなかつたが、盛であつた事は事実である。
●徳川時代に入り平田篤胤の復古派神道が出て右の説を打ち砕いた。
●神皇正統記の神道説は其のまま国体尊厳説であり復古神道派の国体説も神皇正統記を基礎としてゐる。
●南北朝時代に発達した反本地垂迹説は日本優越論となつた。
※清原貞雄著「国学発達史」の文中から筆者が大事と思ふ所を抜き書きしたものである。