皇国救済原理は高天原主義也 世界皇化浪人 下山陽太

橘孝三郎翁

橘孝三郎翁

本紙復刊第四号に「吾、皇国社会主義即高天原主義を標榜す」と云ふ表題で寄稿させて戴いたが、今回は其の続きとして、皇国社会主義について、述べたい。
皇国体に相応しくないと思ふものを排撃するばかりが 皇運扶翼なのでは無い。皇国体を寄与させるべく、即ち 皇化し得るか否か試みる事も又 皇運扶翼なのである。山崎闇齋先生一門が儒教を 皇国体の軍門に下したやうに、頼山陽先生が漢詩を 皇化したやうに、寧ろ異国の文化や学問を 皇化させ、更に発展させる事が皇国の特徴とも云ふべきものであらう。従つて、天皇尊中心の社会主義及び共産主義に昇華する事も、あながち不可なるべきものとしないのである。皇化を否定するは 皇国に於ける思想運動、そして、思想の偉大性を否定する事になる。愚生が赤色陣営を断罪する理由は 皇化をせずにありのままに赤色思想を受け容れたからであり、此れは赤色陣営の思想運動の決定的敗北要因であらう。単に、マルクスやトロツキーの思想を 皇国体に順応せずに当てはめるだけでは 皇国及び皇国体の生成発展に寄与しない。何故ならば、皇国と彼の国では、「国体」、「風土」、「文化」、「慣習」、「信仰」、「民族性」が違つて当然であり、其の前提を忘却し、思想を採り入れるのは無理難題である事は云ふまでも無い。
殊に吾が陣営に於いても、新右翼の教祖様の如く、左翼に迎合、媚び諂ひ、取り込まれてしまつたら元も子も無い。如何に赤化思想を 皇化するか、此れを考へる方が建設的である。例へば、北一輝なぞは「法華経」と云ふ信仰はあるが、天皇尊信仰は備はつていない。其の為、彼には「本教」、「皇国体」、「天皇尊」と云つた信仰心が欠乏してゐるは『日本改造法案大綱』を読みさへすれば明瞭である。抑々、民族派学生運動に挺身してゐた人士に北一輝気触れが多く、可笑しな事を云ふ連中が多い事からも『日本改造法案大綱』は焚書すべき吾等陣営の害毒思想書である。焚書は否定してはならず、害毒思想を現世から抹殺する事こそが、思想運動の極北である。偏に、国会社会主義は否定しないが、此の思想に信仰を注入、皇化されゝば、皇国体の生成発展を担ふ思想になると共に錦旗革命を挙行する細胞の一つには成り得る可能性がある。
皇国が神国である事は、日蓮主義を含む仏魔信仰者以外は周知の事実である。然し、御宇が経るに連れ、神国たる所以を忘却し、加へて、外来思想を摂取し過ぎたが為に「神代の理」が徐々に薄れてきた。吾等は日本国民に非ずして 天皇尊の臣民である。国民国家を否定し、天皇国日本、神国日本を顕現する事こそが吾等の義務であり、日本国憲法の義務(勤労、納税、子供に教育を受けさせる義務)なぞ、人間として至極当たり前である。憲法改正、朝日新聞叩き、朝鮮人及び支那人を排撃するのは個々の思想に依るものである為に否定されるべきでは無いが、皇民が豊かに成らなければ、皇民が 皇国体と云ふ存在を考へ、そして、闡明に向けられる筈は断じて無い。昨今、小泉・竹中構造改革及びアベノミクスと云ふ名の新自由主義で皇国は疲弊してゐる。さう、吾等は経済を疎かにし、時局に向かつてしまつた事は自省しなければならない事実である。
愚生の究極的な目標は愛国勤労党の綱領に、「天皇と国民大衆との間に介在する一切の不当なる中間勢力を排撃し、一君万民、君民一家の大義に基づき搾取なき国家の建設を期す」とあるやうに搾取無き 皇国を建設する事にある。其の理念に基き産み出したのが「高天原主義」である。「高天原主義」とは、何ぞやか、と述べる前に根本的な 皇国救済を考へた場合に既存の思想では無理に近い。吾等が掲げる「愛国」や「救国」と云ふ概念を投擲し、「立国」と云ふ立場に立たなければばらない。此れは大川周明博士の考へであるのだが、大東亜戦争敗北に依る米軍占領に依つて 皇国体及び 皇土が蹂躙されてしまつたが、修理固成の神勅に立ち返り、新しい国づくりをしなければならないと云ふ念頭に立ち、「立国」と述べてゐる。「立国」とは、博士の云ふ「新瑞穂国」建設であるが、愚生は「高天原」建設を主張したい。其の為の高天原主義である。高天原主義は簡単に云へば、皇国社会主義及び農本主義の習合思想である。所謂、社稷再興に基く農村再建と天皇尊中心の経済体制の構築に依る高天原の建設であり、搾取無き皇国の建設である。
先づは如何に社稷再興と農村再建を行ふのか、述べたい。皇国は「農は国の大本」と云ふ神代以来の国是がある。「立国」と云ふ概念に立つた場合に取りも直さず、斎庭稲穂の神勅の精神に回帰し、「農村再建」及び「農本国家」を建設しなければならない。退廃的都市文明が農村文化を破壊した事は明白であり、文明開化を起点とする『殖産興業』及び『富国強兵』こそが諸悪の根源である。顧みれば工業化邁進に依つて、農村文化は破壊されてしまつた。吾等はアングロ・サクソンのやうな狩猟民族では無く、農耕民族であるが為に農業無くして存立する生活は有り得ない。都市居住者は農村を拠所とする百姓によつて生かされてゐる。云ふならば、自覚せずとも、百姓こそ、斎庭稲穂の神勅の奉戴者である。支那及び豪州、そして、米国から万が一、国交断絶でもされたら、一億皇民が餓死するのは明白である。吾等の食糧を養ふのは農村であり、農村であり、農村が廃れてしまつたら、吾等の生命たる食糧を異国に頼つてしまふ、と云ふ現状になつてしまふ。此れこそ、吾等が考へなければならない真の安全保障が食糧自給問題であり、戦前の如く、自国民の食糧は自国民で生産しなければならない。自国の食糧を異国に依存する、と云ふ事自体が異常なのであり、自給自足は国家として、当り前である。其の為にも、農村は再建させなければならない。農村再建は社稷再興にある為、権藤成卿翁の社稷に関する考へを此処で取り上げたい。権藤翁の『農村自救論』に曰く、
社とは土地の義にして、稷とは五穀(米・麦・粟・稗・豆)の義である。人が其の土地に住み、その土地の生産に存活する自然の天化を尊び、皇室と人民と共に之を奉祝したもので、是の意義よりして衣食住、男女の調斉を以て祭(マツリ)が起り、政(マツリゴト)が始まり、進んで国としての形態が出来たものである。 之を約言すれば、一般人民の自然的自治の上に政治が施行され、天化自然の社稜を其土台として、その国が建設されたものである。そこで国家の政体組織等は幾回変化しても社稷は決して動かぬのである。
社稷は産土神社(氏子神社)を中心に再興されなければならないが、内務省神道の系譜を引く神社本庁では産土神社の再興は到底不可能である。何故なら、彼等が金権及び合理主義に奔り、信仰も教学も忘却したのは愚生が此処で述べる必要もない。更に云へば、自民党の院外団に成り下がつた神社本庁が神敵たる創価学会(公明党)と連立を組み、其れに享受してゐる事からも彼等が現状維持的佐幕的姿勢であるのは明白である。
話が脱線してしまつたが、社稷再興及び農村再建には人士が必要である。高度経済成長に依つて、都市へ人口が流出してしまひ、其の弊害が犯罪多発、秩序姧乱、地方人口減少、又、過疎地の水源地を支那及び欧米に買収される、と云つた問題が起きてゐる。徳川執政体制下の老中水野忠邦翁の如く、「人返し」を行ひ、大都市に集中する人口を地方に分散させる事を訴へたい。農村退廃が国家衰退に繋がるのは必然の理であり、百姓の保護及び救済を行ふと共に地方に転居した皇民を国家で面倒を見、過度の資本主義は清算しなければならない。愛郷塾橘孝三郎先生が『日本愛国革新本義』に曰く、
実に農本にして国は初めて永遠たり得るので、日本に取つてこの一大事は特に然らざるを得ないのであります。日本は過去たると、現在たると、将た又た将来たるとを間 はず土を離れて日本たり得るものではないのであります。(中略)御承知の通り只今の世の中は俗に申せば何でも東京の世の中です。その東京は私の目には世界的ロンドンの出店のやうにしか不幸にして映りません。兎に角東京のあの異状な膨大につれて、それだけ程度農村の方はたゝきつぶされて行くといふ事実はどうあつても否定出来ん事実です。そして只今位農民が無視され、農村の値打が忘れられたためしもありますまい。
と述べてゐるやうに「土」を忘却する事は非皇国的であると戒めると共に東京一辺倒主義を断罪してゐる。都市計画も皇国の弊害たる文明開化主義(欧米模倣)に汚染されてしまひ、特色の無い都市になつてしまつた、と云はざる得ない。此れは昨年、愚生が西日本遊学した際に気付いた事であるが、何処の街に行つても東京的都市づくりである。都市設計は其の街の特色に基き乍ら、建設されなければならない。
次に 天皇尊中心の経済体制について述べたい。此れは戦前の統制経済とは全く異なるものである。飽くまで、高天原主義は天皇尊が中心である。社会主義を皇化し、「天皇社会主義」を首唱した大日本愛国党赤尾敏先生は、
天皇と労働者を直接結びつけて、天皇陛下と労働者の間にゐる資本家とか地主をなくして、君民一体にする。さういふ社会をつくる。社会主義の理屈を天皇中心の立場でいふ。
此れは「天皇社会主義」の根本的理念である。赤旗共産革命では一億皇民を幸福にしない事は東西冷戦構造の終結に依る赤色国家の末路を考察すれば明白である。又、「皇道経済」を首唱した大本・出口王仁三郎師の『大正維新に就て』に曰く、
元来総ての財産は上御一人の御物であって、一箇人の私有するを許されない事は、これ祖宗の御遺訓と、開祖帰神の神諭に炳々として垂示し給ふ所である。(中略)挙国一致私有財産の制度を根本的に撤去して、世界の絶対的主師親の三大天権を享有し給ふ万世一系の天皇に奉還し、以て国家財産の統一整理を敢行し、神聖なる祖宗の御遺訓を実践躬行し、先帝の遺詔に奉答すべき献身的覚悟を持たねばならぬのである。
更に、錦旗会(時対協に加盟してゐた大日本錦旗会とは関係無い)の遠藤友四郎(無水)翁の『一切無私有の原則と制限私有の実際案』に曰く、
今日の社会制度、経済組織の欠陥、突き詰めて言へば資本主義経済の社会的欠陥は、多くの論者が漠然と指摘して居る如き、謂ゆる単なる『財産の私有』に基くのでは無くて、実はその『私有』が何等の『制限』をも蒙らない処に在るのである。蓄積方法の善悪は論ぜず、その所有及び使用の無制限なる事が、大禍根の淵源なのである。故にこの財産の私有に、整然たる制限を附すべきである。(中略)私有額限度を制定して、この限度を超過する超過財産をば国家に提供せしむべしとする。
出口師及び遠藤翁が述べてゐる「奉還」及び「私有財産制限」こそが高天原主義の本旨である。若し、私有財産の制限を超へた場合は天皇尊に奉還され、皇業扶翼及び世界皇化の為に使はれる。抑々、皇土で産み出された富は 天皇尊に奉還されて然るべきである。天皇尊に富を奉還し、吾等皇民に平等に分配されてこそ、正真正銘の君民一体(古代の「公地公民」を理想とす)となる。「皇土」、「皇民」、「財産」、其の他一切合財は凡て 天皇尊が統括される。此れこそ、天皇尊の「統治権」の概念である。
其の為、「経団連」に加盟する企業や「パソナ」が幾ら、稼がうが天皇尊に奉還され、従業員に平等に分配される事から、私腹を肥やす連中に膺懲の大鉄槌が下される。個人及び企業の利潤を追求するやうな資本主義は 皇国に必要無く、其の蔓延に依つて、高天原建設は遠退いてしまつた事は明白である。皇国に於ける思想及び信仰は高天原を建設する事に集中されなければならない。
現実に目を向けると、食料品を含む日用消耗品に消費税を課すのは誤りであり、吾等が生きる為に必要なものに税を課すのは可笑しいだらう。又、消費税を増税する前に国会議員を含む地方公共団体の議員の歳費及び議員の削減を実現してこそ、消費増税を吾等皇民に提示する事が出来る。自らの身を削らずに皇民に負担を押し付けてしまつては自らが特権階級である事を証明してゐるに事に他ならない。さう、政界、官界、財界が儲け、皇民に還元されないやうな経済制度は 皇国に必要無く、投擲しなければならない。皇民を虐げ、私腹を肥やす「皇民の敵」を討つ事こそ、急務であり、左右陣営がドンパチしてゐる暇では無く、其の力は為政者に向けられる必要がある。赤色陣営を皇化、高天原主義に転向せしめる事で地上に高天原を建設する勢力を構築、結集しようでは無いか。
尊皇攘夷、敬神崇祖、廃仏毀釈
※画像は橘孝三郎翁