本居宣長大人著作『直毘霊』曰く、『いく万代を経とも、誰しの奴か、大皇(おおきみ)に背き奉む。あなかしこ、御代御代の間に、たまたまも不伏悪穢奴(まつろはぬきたなきやつこ)もあれば、神代の古事のまにまに、大御稜威をかがやかして、たちまちにうち滅し給ふ物ぞ』は絶対攘夷宣言であり、宣長大人の著作で一番格調高しき文章であると愚生は思つている。
皇国の古道を闡明にした本居宣長大人の『直毘霊』なくして、皇学発展有り得ないと云わしめた、卓見に値すべき著作である。神代派は思想・信仰に妥協してはいけない原理主義であらねばならない。惟神大道を本居平田の皇学の探求によつて、強固なものしなければならない。極端に申せば、惟神大道原理主義即ち神代派でなければならない。神代派の使命とは、『地上に於いて高天原の建設』と云ふ一言に尽きる。即ち神典世界を現世(うつしよ)に於いて顕現することである。
現今の皇国仏教は敬神尊皇を確信的忘却、皇国体汚辱に日々励むことが仏国土建設に繋がると信じて止まないどうしやうもない連中が坊主であり、其の坊主等に金品を貢いでいるのが『檀家』と呼ばれる因習陋習の権化たる連中である。高天原建設阻害の究極的問題が『檀家制度』であり、神代派はヤルタ・ポツダム体制打倒を一に叫ぶのではなく、近世から現今に亘つて皇民を宗教的・信仰的・精神的に束縛している『檀家制度』の打倒こそ、高天原建設の第一歩であると考へる。そのためにも神代派は皇学によつて顕幽一致の大和魂を身に付けやうではないか。
神代派にならんとする者は政治的思考から脱却し、宗教及び信仰・精神的改革を神代派が行ふべきであると考へる。神代派とは、思想家であり、宗教家なのである。そして、神代派は宗教及び信仰、そして、思想戦線であることは此処で銘記する必要もないであらう。
皇學館大學 下山陽太