神代派は神典根拠で以て行動する云はゞ惟神大道原理主義で在らねばならない。神代派を名乗る以上、仏道の如き汚らはしき教へを信仰すること自体、信仰に於ける敗北を意味する。更に穢らはしき道である仏道は今や、発祥国である天竺でさへもその力を失ひ、東南亜細亜諸国に宣布されてゐる仏教は既に釈迦の教へに非ず。釈迦の教へと称し、その弟子が作り出したる嘘偽りの経を信仰し、今に至つてゐる。此の事は仏道批判の大著たる『出定後語』の著者である富永仲基翁(篤胤翁の出定笑語は此から来たり)は之を加上法と云ひ、仏法の悪毒たること闡明にし、また、此れを公に宣布されたのである。
神代派は富永仲基・平田篤胤の道統に馳せ参じ、そして、廃仏を行つてこそ皇国体は明徴され、更には地上に於いて高天原が顕現されるのである。此が神代派の使命であり、排害主義とかヘイトスピーチ等と云ふのは神代派にとつては俗事であり、神代派は廃仏と云ふ神事を挙行しなければならないのである。
神代派は賀茂馬淵大人の『国意考』、本居宣長大人の『直毘霊』、平田篤胤大人の『霊能真柱』・『出定笑語』から絶対攘夷思想を学ぶと共に、此れ等の著作を座右の書とすべきであり、神代派は廃仏挙行の宗教戦争の道彦にならうではないか。しかしながら、宗教戦争の本質は闇雲に寺を焼き討ちすれば良いと云ふものではなく、仏道跋扈の根底を支へる思想及び信仰に対する思想戦争・信仰戦争こそ、宗教戦争の大前提であると此処で断言したい。
神代派は仏教駆逐根絶の道彦でならねばならず、廃仏なくして地上に於いて高天原の建設は不可能であることは明白な事実であり、神州の生気を取り戻さねばならないのである。
皇學館大學 下山陽太