こゝで講ずるのは、古道の大意です。まづその説くところは「我々の学風を古学と申す理由」「古学の源及びそれを開き、人に教へ世に広めた人々の大略」「その基づくところ」「神代のあらまし」「神の御徳のありがたきいはれ」「我が国が神国なるいはれ」「賤しい我々に至るまでも神の子孫に相違ない理由」「天地の始めより、恐れながら 天皇命の御系統が連綿と御栄えになり、万国に同じ国なく、物をなす技も万国に優れてゐること」「日本人は、その神国なるゆゑに、自づから正しきまことの心を具へてゐて、それを古より「大和心」とも「大和魂」とも言はれてゐること」これらの事を色々と申します。また「神代の神の御伝説、その御所業」これらのことは、今の凡人の心をもつて思へば、大変に不思議で信じがたく思はれます。そのことを諭し、その事柄を講ずるなかに、まことの道の趣も自からこもつてゐるのです。
たゞし、神代のあらまし及び神のありがたき所以などは、二十日や三十日、息もつかずに語つたところで、なかなかその御徳の広く貴く妙なるいはれの万分の一も講説し尽くされるやうな事ではありません。それをわづか二日か三日ほどの間にお話しようとするために、よくよく思ふところを、かいつまんでお話したのでは、かへつて浅々と聞き受けられる方もあらうかと思はれますが、この後徐々に講説いたしますので、粗々とでも神代の事を申しておきませんと、ご理解いたゞけないことが多いのです。
そのためにやむを得ず、かいつまんで神の御代の移り変はりを、駈け通るやうに申し上げるのです。そのために彼の世で誰もが言ふ「岩戸隠れ」や「オロチ退治」などの事は申しません。全ての細やかなことは、古伝説の純粋なるところを選んで、別途に詳しく講説いたします。何故その詳細をこゝで説かないのか思はれる人もありませうけれども、これには訳があります。その訳といふのは、私が説く古道といふのは、いはゆる天下の大道で、則ち人の道である故に、我が国の人たる者は、学ばずともその大意ぐらゐは心得てゐるはずです。そのため講説はどなたさまでもご理解出来ない筈はありませんが、今の世の中は一般に、儒道、仏道を始め、その他諸々の道が広がつてゐて、各々その下の心に仏道によるとか、儒道によるとか、さては俗にいはゆる神道、または道学とか、またあるいは心学などといふことで、座りをつけおいたり、又そのやうに座りをつけてゐるといふ程ではなくても、何となく右のやうな説などを、見馴れ聞き馴れ言ひ馴れて、なんらかの下心があり、また必ずかぶれてゐない人はゐないのです。
それ故に、まづ最初に私の専門とする古の道を詳しく講説しますと、世間の人々の見馴れ聞き慣れ言ひ慣れてゐるさまざまな事柄が障害となつて、よく合点がいくほどに真の意味合ひを悟りえません。聞き取りかねるため心得違ひが出来て、大事なことが紛らはしくなるのです。たゞ紛らはしくなるばかりでなく、その元より心に蓄えた事と、私が説く趣が違つてゐることによつて、これを信じようとしないでせう。信じないため、全てをお聞きにならず、少しばかり聞いた事柄を、信じないまゝに聞き違へ、その聞き違へたことを、それながらに尾ひれをつけて、外へ行つてあれこれと非難などするものです。世間を見ればそのやうな人が沢山ゐるものです。
これは元より大意のため、よく聞かれたところで、実は古道学の万分の一でもありません。その万分の一の片端を、一日二日聞いたぐらゐでは何も言へるものではありません。たとへばこゝに大きな牛が一匹ゐたとします。しかし全盲の人は見ることがかなはない、
たゞ尾つぽばかりにさはつてみて、その全体にさわつてもみなければ、牛は小さい獣だと思つて卑しめるやうなものです。
この世の始めより今の神の事実でもつて、ことに古の 天皇命の広く厚いおぼしめしで、厳重に重んじてお伝へあそばしたことなどを申すため、疎かであつては、その 天ッ神、 国ッ神、及び古の 天皇命の後の世をおぼしめす厚き御心に対して、当方は何とも恐れ多きことによつて、まづその旧来の聞き慣れ見馴れてゐることの、正実のあるかたち、又其の秘ごとを粗々と論評して、人々の心に、仏道にもあれ、儒道にもあれ、心法、悟道、または俗にいふ神道にも、まづこのやうなものだと言ふことを心にとめ、座りをつけおいて、その魂が座つたところで、古道の奥意を、古伝説をもつて、とくと講説しますから、その時から私の説に疑ひがなくなるのです。
「学問の種類」
さて、別途に申したいことがあります。それは世間の学問と言へば、一つの方法のように聞こえますけれども、はなはだ種類があつて、まづ私がお教へいたす我が国の学問にも、細かに分けると七つ八つに分かれるのです。まづ神の道を第一とする一派があり、また歌学といつて歌の道を旨とするのがあり、また律令の学といふのがあり、又伊勢物語や源氏物語を主に学ぶ者があり、又歴史の学と言つて御代々のことを研究する者があり、又古実諸礼の学問が一つあり、その中にも俗に神道といつてもさらに諸流があり、歌学といつても二、三流派があり、ざつと御国のことを学ぶだけでもこの通りの派が分かれるのです。
また儒者の学ぶ漢学といふのにも同じく御国の学問ぐらゐに派が分かれます。又仏教も、色々と諸宗があり、各々その立場が違ひますので、学び方が違ふのも元より、仏法から分かれた心学などといふ、ちよこざいな事をして、人に勧める者もゐます。これらの訳は別途に仏道の大意を説く時点で申すつもりです。又天文地理の学問、また蘭学といつてオランダの学問、また医者の学問にも種々の区別があります。
このとほり学問は色々あります。その中に何の学問が一番大切かといへば、御国すなはち我が国の学問ほど大きいものはないのです。まずは儒学と仏学で申せば、儒者はまず四書五経、十三経とかいふ類の書物を読むことを覚え、また左国史漢といつて『左傳』といふもの、国語といふもの、『史記』といふもの、漢書といふものなどの概略を読んで、それから漢文を書く方法を覚え、その普段の言ひぐさに、詩を作ることでも覚えますと、もう儒者と言つて通ります。しかし、これしきの書物を読んで、これしきのことを覚えるにそんなに難しいことはないのです。大方の世間の儒者はみなこれぐらゐのものであります。
さてその儒者に比べては出家(僧)の方がよほど広いものです。なぜかといへば、己の是非を学ばねばならぬと、俗にいふ経文が五千余巻あり、馬に乗せたら七十八頭分もありませう。それを全て読まず、十分の一を読んだところが、ざつと儒者が主に読まねばならない書物の千倍もあるのです。それのみならず儒者は、仏書を読まなくても不足はないのでそれを読まず、それでも仏書を読む儒者もたまにゐますが、それは百人に一人もゐません。修行僧はそれと異なり、儒者の主に見る書ならば子どもの時から、文字を勉強するため読んでゐます。また詩も漢文も、儒者と同じように作りもします。こゝで修行僧の学問は儒者よりは広いのです。
また国学が一番広いといふのは、以上申し上げた通り、儒学仏学を始め種々さまざまな学問が有つて、その道々の心と事とが、ことごとく国学に混入してゐます。たとへば彼の八紘九野の水、天漢の流れが注がないことはないといふやうに、あらゆる学問が混入して、大海へ諸々の川々に落ちてくる水の混じつてゐるやうなものです。
その様に入り交じつてゐるために、人の心も色々と移り、何を良いとも、何を悪いとも分けられず、まごついてゐる者が多いのです。そのため、その混入をつぶさに分けなければ、真の道のありがたいところも顕れず、その混雑をより分けて、真の道の害となることを、言ひ表さうとするにつけては、先の事を知らなければ言へないのです。
支那人の蘇子由も言つてゐるとほり、こちらのことばかり言つていてはいけないものです。たとへば僧侶が人を諭すとき、仏書を用ゐて言はれるとぐうの音もでません。儒者が人を諭すときは、儒書を用ゐて論ずれば、猫に追はれたネズミのやうに畏まります。しからば我が国の純粋な正しい道を獲ようとするには、こゝのところを心得なければ叶はないのです。
ことに諸々の学問の道、たとへ外国の事にしろ、日本人が学びますからには、そのよきことを選んで、日本の為に役立たうとするのです。さうすれば支那はもちろん、インド、オランダ(西欧)の学問をも、すべて我が国を学ぶといつても間違ひないことです。すなはちこれが日本人にして外国の事を学ぶ心得です。
さて、我々の先師たち以来、私も及ばずながら気をつけて人にも講説いたすには、何ごともこの学問の本意に背かないやう、背かぬやうにと吟味に吟味を重ねて、古人先達の公論明説に基づき、その説を講説をいたすものゝ、広範な事のなかには、考え違ひや言ひ違ひもあらうと思ひます。なぜならば、篤胤はもとより不敏の性質にして、なかなかに世の中の多い数多い事柄の、万分の一も知り得られるものでないことですから、考へ違ひもあることでせうと、それは常に心づかひしてゐることです。よつて、今お聞きになつてゐる方々の内、門人に限らず「いや、それはさうではあるまい」と思はれるお方があつたら、その思ふことを言つてくださるがよろしい。その意見が実に理にかなうならば、速やかに改めるものです。また不審なこともあつたら質問して欲しいものです。また神のことを申すに至つては、まるで世間普通の学者等の申すことゝは違つてゐますから、今まで思つたことゝは異なることであり、「鬼神には陰陽の二気が備はつてゐる、鬼神は造化のしるし」と人は聞き及んでゐるのに、平田の説く事は、信じられない事だと思ふこともあるでせう。これは私もそのやうに思つたことがあつたものですが、そのやうな事もありのまゝに、ご不審を承りたいのです。疑はしい事を質問しようと思つても、「どうしたらよいだらう、どうしようかと自問しないような人は、私にはどうしようもない(論語)」とも言ひます。
何とぞ今日を始めとして、これからも投げ出さないで、神のありがたいところ、道の精妙なところまで、学びつき寄りつき、聞き干さうと志をふり起こされますやうに致したいものです。続く
防共新聞1148号(平成22年7月号より)より