【1/1】神光迎来

輝かしき令和六年を迎へ 皇室の弥栄と読者諸氏の御健勝を御祈り申し上げます。 令和六年元日

◆明治三年正月三日「惟神の大道を宣揚し給ふの詔」が渙発遊ばされ、また同年に「神仏分離令」が発布された。

◆「惟神の大道を宣揚し給ふの詔」を謹解するに、古の祭政一致は、全ての民は同じ心を擁し、治敎上に明らかであり、天下は美はしい国であつたが、外津国から仏教が輸入され(それを国教にせんとする蘇我氏により惟神の道を護らんとする物部氏が駆逐され、仏の地位が神よりも上と云ふ邪説誤想以来)時には穢らわしきものが栄え、正しい道が見えたり隠れたりしたが、天運は循環し全てが新しく正しく改まつた。「天神天祖」が立て、御歴代が受け継ぎ給うてきた「惟神の道」を布教し人々を教化する事を宣教使に命ずる。全ての臣民はこの意味をよく理解せよ。と。

◆また「神仏分離令」とは「惟神の大道を宣揚し給ふの詔」に基づいた布告・通達であり、神仏習合の信仰を廃止し、神社から仏教的な要素を排除することを目的とした。「神仏分離令」布告・通達の後、民草から沸き上がつた廃仏毀釈運動は数百年にも渡る寺院の権力保持に対する反動と、日本は皇国であるとの目覚めであつた。各地では仏像が壊され、寺院が焼かれ、僧侶は還俗し、屠つた仏像や仏教絵画、建築物は数多であつた。それは仏教的に言へば「因果応報」なのである。

◆しかし徳川幕府時代の檀家制度により、祖先の墳墓は住まう地域の寺院内に留められた故に祖霊を「人質」に取られ、民草の間では「諦めムード」が漂つてきた。その影響か、現時では葬儀の際、仏式が約八四%、神葬祭が約十%と、仏式が圧倒的に多く、廃仏毀釈運動の敗北と言はざるを得ない。

◆日本は神国であり仏国ではない。よつてかかる事態を糾す為には「詔」に沿うべく国体を闡明にし、廃仏毀釈運動を再開するべき年にならん事を願ふ。

令和六年元旦

「一月一日」(明治二十六年文部省告示)
年の始めのためしとて 
終なき世のめでたさを 
松竹たてて門ごとに 
祝ふ今日こそ楽しけれ