復刊六号(平成二十六年十月一日)より
皇國功人列傳 雨森芳洲(中編)
雨森芳洲は天和三年、江戸に下り木下順庵の門下に連なつた。年十七、八のころである。芳洲は廿二歳で對馬藩に仕官することになるのだが、姑らく江戸藩邸に留まり順庵に學んだ爲め、その膝下にあること凡そ七年に及んだ。この閒、芳洲より三年遲れで十一歳年長の新井君美(白石)が順庵門に入り、四年程二人は同窓の時を同じうしてゐる。君美は當時の芳洲を囘顧し「年十七八東見先生於都下、風神秀朗、才辯該博、先生稱爲後進領袖(※年十七、八、東して、都下に於て先生〈順庵のこと〉に見ゆ。風神秀朗、才辯該博、先生稱して後進の領袖と爲す)」(享保十二年、新井君美著『停雲集 卷上』廿丁)と評してゐることから、芳洲が一門のなかでも羣を拔きたる好學之士であつたことがわかる。同じく祇園南海の囘想によれば、順庵の門人達は詩社を結成し、月一度芳洲の自宅に集まつてゐたといふ。又た仲閒達と『資治通鑑綱目』を講讀する集まりが開かれてゐたとも記されてゐる。『資治通鑑綱目』とは、司馬光が宋皇帝の命をうけ編纂した歴史書『資治通鑑』(紀元一七四四年成立)を、朱熹が大義名分及び正閏を明らかにする立場から再編した史書である。後に記するであらう新井君美との、所謂る〝國王號論爭〟に於てその君美を追ひ詰め、君美をして「對馬國にありつるなま學匠」(『折たく柴の記』)と悔しさ餘つて云はしめた芳洲の大義名分と尊皇心による識見は、畢竟付け燒き刄や注目を聚めんが爲め奇を衒うた戲言に非ずして、かの順庵門當時、延いては京都在住の少年時代より培養されてゐたと認める可きであらう。何は兎も角、斯かる好學の士が、師順庵の推擧を以て對馬藩に仕へたところから本篇は書き進めねばならぬ。
當時の日朝關係
このころの日本は既に鎖國政策を布いてゐた。だが他國との對外關係を完全に斷つたのではなく、依然として一衣帶水に位置する李子朝鮮との國交は重ねてゐた。琉球とは通信の關係を保つてゐたが、琉球は島津氏の付庸として取り扱はれてをり、支那や和蘭はたゞ商舶が幕府の規定に從ひ長崎を往來するに止まつてゐた(和蘭船の甲比丹が來日の際、江戸に獻上物を捧げてゐたが、それはあくまでも通商の御禮として挨拶するに過ぎない)。對李朝はこれらと異なり、家康時代に通交を恢復して以來、鎖國後も互ひに國書を往來し、幣物の交換もし、信使の來聘も行なつてゐる。よつて家光の鎖國以來、黑船が來航する期閒まで國交らしき國交と云へば、たゞ李子朝鮮これ一國であつた。因みに天和二年の朝鮮通信使來朝の際に、幕府は約百萬兩を費し接待したと記録されてゐる。當時幕府の年收が約七十萬兩であつたから、如何にひとり朝鮮との國交を幕府が輕からざるものと認めてゐたかわかるであらう。然もこの朝鮮が、小國ながらなか〳〵厄介であり小面倒な國家であつた。
江戸時代の初期、家康に才を認められた林道春(羅山)によつて、幕府は朱子學を以て正學とした。そして李朝は、この朱子學を國敎としてその最も熱心にして固陋なる國であつた。ゆゑにその李朝が格式に拘はり、禮事や文事など小刀細工を以て對日外交に挑み、自からの國威を高めようと努めたことは小國たる者として然らしむところであつた。加へて新井君美の分析に從へば、彼れらは「文禄慶長の役」に於ける雪辱を晴らさむとするの意が存してゐるとか。君美は『朝鮮聘使後議』のなかで「もとより其兵弱くして、我國に敵す可からざることを覺悟して、いかにして文事を以て其耻を雪ぐ可しと思ひめぐらし候ひしかば」と述べてゐる。君美の觀察眼が果して的を得てゐるか否かはさておき。いづれにせよ、彼れらが國威を示さむとするの含意を籠めつゝ日本に通信使を派遣したことは疑ふ餘地なき事實であつた。
天和二年、德川綱吉が第五代將軍として襲職するに際し、襲封祝賀として來日した通信使は總勢五百名近くに及んだ。彼れらの中心である正使、副使、從事官はみな科擧(彼の國で官僚になる爲めの高度な試驗)を優秀な成績で合格した、謂はゞ國家によつて擇ばれたエリート中のエリートである。彼れらは學才あり、文才あり、そして詩文に非常なる才があつた。李朝を代表する彼れら文人官僚達が通信使となつて日本に滯在する折、日本では饗應のほかに詩文の應酬會を催すことが常であつた。來日した客人達に日本のエリート文人などを差し向け、詩作で接待するといふわけである。だがこれは詩文の應接などといふ一興に非ずして、一方で峻烈なる外交を意味した。日本にとつても擇ばれた文官の詩作が彼れら通信使に見劣りするやうなことがあれば、それは即國威にかゝはることゝなる。當時學文に於ける幕府の權威者は林家だ。だが林家の學は道春以來、世襲である。世襲は代を重ねるにつれ、才が乏しくなる懼れ無きにしも非ずだ。固より通信使は李子朝鮮の使者であることから、林家の權威など效果の及ぶ可きところでない。然も既記のとほり、李朝は朱子學を以て彼の國の國學としてをり、朝鮮の外交官僚の敎養はあくまでも朱子學を基本としてゐるので以酊庵の外交僧どもだけでは心許無い。ことに朝鮮の士大夫は、相手の詩文や敎養によつてその人物を評價する。これが即時貿易、外交に影響することから、延いては幕威にかゝはることゝなつてしまふのである。地勢上、さうした李朝の窓口であつた對馬藩の苦腦も推して知る可しで、英才を輩出すると謳はれた順庵門下から芳洲、そして松浦霞沼の二人を迎へたことも、詰まるところこゝに起因する(因みに順庵門の新井君美は甲府綱豐[後の第六代將軍家宣]、祇園南海は紀州候に仕へた)。芳洲は斯くの如き對馬に赴任し、對朝鮮外交の要路に立たされたのであつた。
新井君美の華舞臺到來
新井君美と芳洲が順庵門下として嘗て時を同じく過ごしたことは既に述べた。君美より「風神秀朗、才辯該博」と評された芳洲も、君美を年長者としてばかりでなく、彼れの才を認め慕うてゐたやうだ。殊に順庵門時代から詩の添削を君美に乞うてをり、詩作に於ては晩年まで頭が上がらなかつたといふ。
君美は順庵門人の名を辱めぬ詩才があつた。加之、それ以上の學才もあつた。然も彼れは己れの才に甘んずることなき學問、研究の努力家でもあつた。而して彼れは一流の學力のみならず、一流の功名心も持ち併せてゐた。而して時期到來、寶永六年(二三六九年)一月、將軍綱吉歿し、同年五月には宣下あり、君美がそれまで侍講を務めてゐた甲府藩主・家宣が德川幕府第六代將軍となつた。君美の天下の政治に參與する大願が成就した瞬閒である。君美五十三歳、家宣四十八歳だ。
德川幕府では將軍の代替はりが行はれる毎に、武家諸法度を布達することが慣例であつた。大凡は元和令の舊に據つたものであつたが、君美は早速この要事に口を挟み、家宣の襲職に於て武家諸法度を改定せしめた。以降、君美は貨幣改善ほか、悉く幕府による制度政策の刷新を圖りこれを實行してゆく。絶頂期に突入し政治家としてもあれこれ鐵腕を揮ふる君美が、如何で外交姿勢の改革を見逃す可き。然らば朝鮮通信使の應對に君美の鋭利な眼光が向けられたのも、決して意外の事では無かつた。將軍の代替はりが行なはれたといふことは、朝鮮通信使が來聘に訪れるといふことである。李朝の窓口である對馬藩に仕へ、通信使を應接せねばならぬ芳洲は、正德元年の朝鮮通信使來聘に際して、嘗ての同窓の士としてではなく、對馬といふ小藩の役人として中央政府の高官である君美と相對することゝなつた。
幕府による通信使接待の總元締めとも云へる君美は、悉く我れの彼れに對する應對を更革せしめんと努めた。平たく述べれば朝鮮通信使の待遇格下げだ。君美はこれを行なふにあたつて、日本の古禮や朝鮮の禮法、そして足利豐臣時代など過去の日朝閒に於ける使節待遇の事例等を徹底して調査研究し、これに倣つて卑屈とも思へる當時の我が態度の改善、財政を壓迫するやうな經費の削減を實施した。固よりかうした君美の經畫は、こちら側の國威を示すことを動機とし、目的とした。精確に云へば將軍の威光と云ふ可きであらうが、脱線するのでこの話題に就ては姑く措く。
兎に角、君美による日本の對朝鮮外交は變化の兆しをみせた。されど李子朝鮮は、殊更ら禮節に拘りを持つ國であり、而も過敏なことにでも反應を示す小難しい國民性を有した。然るに改められた日本側の應對が如何に道理に適つたものであるにせよ、正面から高壓的に、しかも突如として一方的に格下げされるといふことは、彼等自身の恕す可き次第では無かつた。尤も我れの國威を示すといふことは、彼れの國威が損はれるといふことである。朝鮮通信使たる彼れらが侮辱を被りたるものとして不快に感じない筈は無かつた。然るに正德の來聘では、事ある毎に日朝閒の當事者同士に問題を生ぜしめた。
正德に於ける通信使とその對應
正德元年、愈々通信使は來聘した。彼れらが大阪の客館に到著した折、早速問題は起こつた。問題の内容を要約すればかうだ。日本側の使者が朝鮮通信使の館を訪問する際、通信使が階下まで降りてきてこれを出迎へよ、といふ君美の案に對して、通信使側が斷固として之を拒否したのである。對馬藩としては君美が一切の妥協を許さないことを承知してをり、通信使側は階下まで降りるといふことは一段謙ることを意味するので李朝國王の使者がこれを行なふわけにはゆかない、と互ひに一歩も讓らない。晝から夜半まで議論をしたが埒があかない。遂に對馬藩が實力行使に及ばんとしたところ、朝鮮側が折れたといふ。
通信使が江戸に到着してまたもや問題が浮上した。將軍が宴を以て歡待するに際して御三家の姿が見えない。通信使側がこれを無禮として責めんとすると、同席した君美が眼光を電の如くし、今にも劍を拔くの勢ひもて叱咤したといふ。朝鮮側は又たしても折れたのであつた。君美の使節團應對にかける意氣込みが如何に嚴厲であつたか、推して知る可しだ。君美は、朝鮮人が日本人の不學を奇貨として、禮制文事の上で常に優位に立たんとしてゐたことを熟知し、これに齒止めを掛けた。これに就て君美は評價されなければなるまい。固より芳洲も君美の饗應の改善案にはほゞ異論無かつた。けれ共今囘、對馬藩の書記として釜山まで使節團を迎へに行き、對馬、瀨戸内海と道中を共にした芳洲は、改善案を實行する爲め、我れの意見を武に訴へてでも押し通さうとする遣り方には困惑したと見える。これは君美が武士の子であるに對して、芳洲が町醫者の子であるといふ出自と育つた環境の想違だけでなく、兩者の朝鮮觀の想違、外交思想の想違が根柢にある。この事に就ては次號に詳しく觸れたい。
因みに使節團は正德元年八月九日に對馬嚴原を發し、九月十五日大阪着、十月二日に京都を發し、同月十八日江戸に着いた。十日後の同月廿八日には順庵門下を主とした詩作の應酬が行なはれ、翌月一日には江戸城で國書を進呈、十一日には返書が渡されてゐる。これが終はれば通信使にとつては重要な使命を果たしたわけで、緊張もやはらぎ、以後、隨行人である芳洲と心置きなく詩の應酬を行なつたといふ。芳洲が長い釜山からの旅中で最も親しく交はつたのは、詩文制作を任務とする李礥(號を東郭とす)であつた。詩文の才では五百人を數へる通信使のなかでも第一であつたらしい。彼れら通信使の芳洲に贈つた詩を左に掲げたい。以て頭ごなしに日本人は無學と識した彼れらがどの樣に芳洲を判斷したか、推量するに如くはなし。
次芳洲韻詠東郭
把酒持螯亦快哉
夜涼華燭影裵徊
君家聞歟禪奄近
順待明朝更進盃
(酒をくみ蟹をつまんで實に愉快だ。夜が涼しく蠟燭の火がゆれてゐる。君の宿は禪庵の近くと聞く。明日になつたらまた一杯やらう)
年が明けて正德二年冬、下關付近の海邊の宿にて二人で一獻交はした際、詠まれたものらしい。そして嚴漢重(號を龍湖とす)、今囘の使節團の書記官である彼れは、對馬で芳洲と別れを惜しむ詩を、左のごとく詠んでゐる。
可惜宏儒僻壤居
以君才調果誰如
賓筵掌禮儀無缺
(立派な學者が僻地に居して惜しいことだ。君の才能に優るものは誰れもない。客を應接すれば禮儀に缺けるところなし)
君美は政治上の權力者として、芳洲は接待上の應對者として日本の國威を示すことに盡力したのである。
(文中敬稱畧、以下次號)
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