皇國功人列傳 雨森芳洲(後編)
歴史的觀察眼で德川治政の二百七十年閒を通觀すれば、能く泰平を保持し得たと云うて宜い。「大阪冬夏の陣」以降幕末まで、殆ど 皇國は戰らしき戰を經驗せずに過ごした。由比正雪による「慶安の變」、山縣大貳による「明和事件」は未遂乃至計企に止まり、天草四郎による「島原の亂」や大鹽中齋による「大鹽の亂」などは局地的戰爭に過ぎない。天下の保持に力めた德川の苦心、甚大なるものがあつたであらう。その一つに、德川執政時代一貫して代々將軍を苦腦せしめたる問題があつた。そは朝幕の關係である。如何に將軍が絶對的權力を有しても、完全無缺の政治體制を確立しても、將軍その人は恰も〝天に二日あり地に二王ある〟かのやうな、極めて曖昧な實權者に過ぎざるを得なかつた。彼れらが名實伴なはれる實權者を欲せばそれ、國體を破壞するより他なかつた。だが固よりこれは不可能だ。彼れらは畢竟、民に〝將軍あるを知りて 天子あるを知らざる〟やう極めて努むるよりほか無かつたのである。然るに國内に於てこの努力は功を成した。だが國外を相手にしてはさうもいかない。自國民は欺けても、對手國要人はさうもいかない。異國より交渉に來たる外交擔當者は、その國の主が誰れであるか最も氣にするところであるからだ。これを證左するに吾人は幕末を好例とす可し。黑船襲來によつて〝地に二王ある〟が如く振る舞つてゐた將軍政治の矛盾が一氣に暴露され、尊皇家の熱心を高めるに至つたではないか。而して幕府の側もこの矛盾に爲す術を失なひ、只管ら朝廷の御機嫌取りを重要政策としたではないか。蓋し幕府はこの露見を怖れたが爲め、家光時代に鎖國を實施した。然るにかうした矛盾と問題は、實は正德元年、既に披露された。乃はち新井君美と雨森芳洲の衝突した、所謂る「王號問題」である。
當時の外交事情と稱號
吾人が當時の外交を知らむと欲すれば、まづ國家閒に於て「事大」と「交隣」の二別あることを知らねばならない。「事大」とは、明・淸國皇帝と朝鮮國王の關係だ。これは宗主國と屬國の關係である。この場合、朝鮮國から支那への外交は〝朝貢〟を意味する。つまり「事大」の關係に於て、皇帝は國王よりも上位にあるのだ。稱號を用ゐるならば皇帝には「陛下」であり、國王に對しては「殿下」が正しい。朝鮮は支那皇帝の封册を受けたので、自稱の際には「國王」の稱號を用ゐたのである。
もう一つは「交隣」の關係だ。これは對等を意味する。云ふまでもなく日本は今も當時も何國の藩屬國ではない。日本が宗主國と仰がねばならぬ國は存在しないのだ。つまり李氏朝鮮は固より、たとひ支那皇帝を相手としても、朝貢せねばならぬ道理は無いのである。
さてここで外交に用ゐられるの稱號に就いて概略を變遷を記したい。
室町時代に於ける外交用文書は五山僧に掌握された。彼れらは大義や名分などに頓着なく、大凡朝鮮の書式及び態度を眞似るに止まり、結果支那に向かうて恰も屬國であるかの如き書式を以て宜とした。足利義滿などは明の皇帝に向かひ好んで朝貢の形式をとり、自ら「日本國王、臣某」と名乘つた。これを潔としなかつた義滿の子・義持は王號を廢し、宗主國顏して憚らぬ明の使者を受け容れようとさへしなかつた。義持の後、また元に戻され、足利政權は再び朝貢外交を始めた。だがその返書には「日本國、源某」と王字を省いてゐる。
豐臣秀吉の時代となると、秀吉はありのまゝ、官位を號した。たとへば朝鮮からの公式文書にて「朝鮮國王姓某奉書、日本國王殿下」と渡されゝば、返書には「日本國關白秀吉奉復、朝鮮國王閣下」といふ具合だ。
德川の時代は秀吉の書式を蹈襲した。この頃、朝鮮が日本側の稱號に就て不服を訴へた。爲めに幕府は評議の上〝大君〟とした。これは林道春(羅山)の提案である。因みに幕末、幕府が琉球や西洋諸國に對して將軍をタイクーン(tycoon)と稱したのはこれに因る。
所謂る「國王號問題」
家宣の將軍となるを幸ひとして新井君美は幕政の主導權を手にした。彼れが種々の改革を行なひ、その内に朝鮮通信使の待遇格下げがあつことは前號で述べた。而してこの待遇更革の一つに「大君」の稱號を廢止し「國王」號の復活が盛り込まれた。紙面の都合上、左に要約を述べる。
一、周易では天子を大君としてゐるので〝大君〟を使用す可きでない。
一、〝日本國王〟なる稱號は室町時代、足利將軍によつて用ゐられてゐた既成事實がある。
一、天皇は支那の皇帝に相當する。皇帝に對して屬國の長が國王であるやうに、天皇の臣下の長が國王と稱することに問題はない(殊號事略)。
これに對して芳洲が苦情を投じた。君美にしては案外と云はんか心外と云はんか、同門にして然も田舍の一小吏である芳洲から叱咤の聲があがるとは思ひもよらなかつたことであらう。芳洲による苦情は乃はち左の如し。
「~略、向きに聞く、這囘信使の來るや、接應の事例、前時と異るあり。而して其説皆執事の主張に出づ、と。思慮既に精しく處置宜しきに適す。交隣の禮を正しくし、無名の費を省き、沿路の臣民をして患苦する所無からしむ」
これは君美による通信使待遇の改革案に就て贊成の意を表したもの。茲に見られる執事の文字は君美のことを指していふ。而、こゝから芳洲の苦衷が吐露される。曰く、
「~略、尋で承るに、内議王と稱するの擧あり。而して其説亦執事の主張に出づ、と。僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む。竊に怪しむ、執事の學問見識、素より春秋の義に明なるを以て、而して乖剌顚倒、一に何ぞ此に至る哉。區々の褊性緘黙するに忍びず、成事説かずの戒、聖訓に出づと雖も過を改むるに吝なる勿れの義、將に執事に望まんとす。幸に採察せよ」と。
以下に掲げるは反論の理由だ。先づ公武の關係に就て説くところあり。足利時代の稱號、それ自體既に誤用であつて、越權であつて、不遜であるとのこと。曰く、
「竊に惟ふに、源平相軋りて以來、王綱日に弛る、絶えざること綫の如し。徒らに虛器を擁して域内の共主となる。而して世々兵權を掌る者、名は大臣と雖も實は國主たり。爵禄廢置皆其手に出づ。遂ひに域内の人をして、復た天に體し日に並ぶの聖統の、巍々然として億兆臣民の上に據るあるを知らず。冠裳倒置、此より甚だしきと爲すは莫し。唯だ臣子恭順の一節、以て餼羊の告朔に當つ可きものは、敢て公然自ら王號を朝鮮に稱せざるある耳」と。更らに芳洲の氣迫は凛々としてその紙上に顯れる。曰く、
「以聞く諸侯王例の説あり、と。此れ甚だ謂れ無し。何となれば則ち、或は日本國武藏王と稱し、或は日本國關東王と稱す。是れ問ふことなくして、其の我が國諸侯王たるを知る可き也。若し專ら國號を以て王字の上に加ふ、則ち國内無上の尊稱たる、豈に昭然に非ずや」と。
これは如何にも痛快且つ適切なる反論だ。諸侯が王の重字を使用するに差支へ無きならば、相模王や水戸王などがあらねばならぬ。ならば將軍は武藏王、關東王である。どちらにせよ「日本國」に王字を付す可き資格を有さない。續けて曰く、
「夫れ前日の日本國姓某と稱したるもの、彼國奉承未だ嘗て之れが爲めに少しも減ぜず。今日の日本國王と稱するもの、彼國恭敬亦た之が爲めに少しも加へず。知らず何の求むる所ありて、而して其の大臣の冠を戴き、國王の名を冐し、夫の將家諸公と同じく千古不磨の是非を蒙らしめんと欲する耶」と。
對朝鮮に於て、自ら〝日本國源某〟と號して何ら損はなく。逆に〝日本國王〟として何ら益あらざりしものを、何をか態々餘計な改變をするのか、といふ意。これは芳洲の憂國の氣概ありて出でたることばだ。この點に就ては後述する。續けて曰く、
「夫れ大君の稱、易に在りては則ち固に至尊の名たり。然も古今異稱、時に轉移あり。或は嫡王子を以て大君と爲し、或は侯伯を以て大君と爲し、或は人父を稱して尊大君と爲す。傳記に見え、歴々考ふ可し。皇帝或は天子及び王號の如く、古今一定して易ふ可からざる者にあらざる也。夫れ然らば則ち、我國大君の稱、大君は即ち冢君、猶諸侯の長と言がごとき也と爾云ふ。何の不可かあらん哉」と。
つまり、確かに周易では〝大君〟は至尊を指してゐるが、歴史上、他に用ゐられたる例證はいくらでもある。いづれにせよ將軍が大君と稱しても、王字に日本國を冠してはならぬといふことだ。
芳洲は、豫て同門である君美の引立てを得て幕府中央に入り、儒官として積み重ねてきた學問を發揮したいとの所望があつた。今囘の反抗で、榮達の見込みが無くなるばかりか、下手をすれば幕政批判の疑ひで罰せられることも無きにしも非ずであつた。
芳洲の批判に對する君美の批判は終始見苦しき言ひ譯に過ぎない(『折たく柴の記』)。同門であり同じく對馬に仕へてゐた松浦霞沼も君美の國王號には痛憤禁ずる能はず。君美の著『殊號事略』を痛罵して『殊號事略考正』を上梓し、君美の曲學を世に訴へた。小なる哉、君美、反論らしき反論を呈する能はず、たゞ「對馬の國にありつるなま學匠」と吐き捨て、彼れらの意見を受け容れることは無かつた。結局芳洲は榮達する能はず對馬の小藩で、八十八年閒の生涯に幕を閉ぢた。荻生徂徠から「偉丈夫」と稱された芳洲も死後次第に忘れられたが、幕末、尊皇論が澎湃するにつれ再び注目されたのであつた。それにしても〝なま學匠〟の、君美を向かうにまはした勇氣と信念に、吾人は拍手を喝采せねばなるまい。
當時の危ぶまれる思潮
「王朝既に衰へ、武家天下をしろしめして天子を立て、世の共主となされしより、其名人臣なりと雖、其實の有所は、其名に反せり。我既に王官を受て、王事に從はずして、我に仕ふる者は、我事に從ふべしと令せむに、下たる者、豈心に服せむや」。
右は君美著『讀史餘論』の一節である。君美は此著で、天下の權が武家に下つたのは歴史の必然であると強弁した。然も足利義滿に就て「其名號をたて天子に下る事一等にして、王朝の公卿大夫士の外は、六十餘州の人民、悉其臣下たるべきの制」と述べてゐるがこれらは啻に義滿を説明したのではなく彼れの計劃と見る可きであらう。君美は單に對朝鮮外交の文書のみ、將軍を〝國王〟と稱させるではなく、國内に於ても事實上幕府の制度を一新し、大名はじめその他の者を悉く、天皇の臣でなく將軍の臣とす可くの計らひがあつたやうだ。それが頓挫した理由は家宣の死だ。この頓挫は日本の爲めだけでなく君美の爲めにも幸であつたと云ふ可きだらう。一方芳洲は彼れの著『大寶説』に於て、武力や權力による政治を認めるものゝそれはあくまでも〝武〟を司るに止まり、朝廷による王道政治の輔弼翼贊する手段に過ぎないと説いた。曰く、
「皇統ハ上に明ラカニ、覇功下ニ建チ、~略~、其神劍ノ用ヲ爲スノ甚ダ大ナルヲ知リテ、神璽神鏡ノ乃ハチ本ト爲ルヲ知ラズ。故ニ武國ノ稱有ルノミ」(『大寶説』)と。覇道が王道を優越してはならない。文(歴史・文化・傳統・宗敎の中心である朝廷)は武の上にあらねばならない―。かうした芳洲の日本に對する信念は、やがて荻生徂徠とも對立することゝなるが敢へて茲では省く。
兎に角、この頃の官學者なる者は兎角あやしむ可き者が多かつた。その一、二を例せば、太宰純(春臺)の『三王外記』で、綱吉を憲王、家宣を文王、家繼を章王と、將軍に〝王〟の字を用ゐ宇内の統治者であるとした。加之、天皇を〝山城天皇〟などと稱し奉り、おそれおほくも單に山城といふ一地區の長として世に廣告したのである。
君美、純ばかりでない。當時の御用學者は悉く將軍の就職を以て〝大統を承くる〟と呼んだ。室鳩巣の如きも勅使の江戸に遣はされるを以て「上皇ノ使、東都ニ來聘ス」と表現してゐる(『赤穗義人錄』)。
噫。かゝる次第なれば 皇威の衰微、衰微す可くして衰微す。芳洲でなくとも君美に向かうて、一體何の爲めに學問をしたのか、出世のためであるか、と尋ねたくなるといふものだ。内藤耻叟の曰く「其幕府を以て毎時古の 皇朝にひとしくし、其典禮を定めんことを謀りしは、名分を知らざるの甚だしき者と云ふべし。既に此持論あり。故に國王と稱し、某廟と稱す。其他の名義、皆王朝とひとしくす。是、白石の罪を、萬世に得る所以なり」と。
芳洲の生きた元禄享保年閒は何ら國難らしきものも見當らず、德川三百年泰平中でも一、二を爭ふほど平穩の世相であつた。さらば幕末のやうに尊皇論が市井に充滿し、勤皇運動が各地で勃興する理由も原因も無かつた。しかしかうした泰平無事の世には泰平無事の世の、尊皇の士が存在したのである。たとひ少數派にせよ。現代の尊皇を志す士よ、何をか想はむ。(雨森芳洲篇、終) ※文中敬稱略
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