國學に就いて私たちはどれだけ認識できてゐるだらうか。本誌の讀者諸兄は國學に就いての智識も有してをられると思ふ。國學は學問の一つであるが一般的には馴染みの薄い言葉であると私は認識してゐる。一方で、國學と云ふ言葉に馴染みがなくても歴史の學習の中で「本居宣長」「古事記傳」と云ふ言葉は見聞きしてゐるはずだ。多くの方は「本居宣長」や「古事記傳」と云ふ言葉を日本史のテスト對策で覺えたが内容にはよくわからない、ましては國學なんて聞いたこともないと云ふ状況もあり得る。しかし、國學はとても身近な學問である事を知つてもらひたい。
本稿は國學と云ふ學問の定義や先人の國學者の考へを知る爲に著すものではない。國學そのものや、國學者の考へに就いて知りたい方は專門書を讀んで戴きたい。あくまでも私自身が日本を理解し、主體的に日本人としての自己認識を得るために行ふ學問の總稱を國學と捉へてゐる。つまり、今私が持てる智識や認識を持つて可能な範圍で行つた「岡學歩」個人の國學の實踐について以下に記載する。
私事のエピソードで申し譯ないが、筆者は三十歳代後半でありその友人の認識に就いて紹介したい。
私の實家は大きな寺院の近所にある。幼少期は寺の境内や墓地でカンケリ等をして遊んでゐた。また祖父母と同居してゐたこともあり、祖父から戰爭經驗を直接聞いたり、祖母と時代劇を見てゐたりして過ごしてゐた。そのやうな背景があつてか日本史に興味を持ち大學受驗の際には日本史を專攻したいと思ふやうになつてゐた。大學では神道を學問として學んだ。そのころに幼少期の友人に會つた際に、「お前の家の前の○○寺で修行でもするの?」と茶化されたことを強烈に記憶してゐる。「神社と寺の違ひもわからないのか」と衝撃だつた。それも、一人二人ではない。複數人が同じやうな事を言つてきたのである。その中で所謂良い高校、良い大學に進學をして、兩親は教員、本人も教育學部で教師にならうとしてゐる友人も寺社の違ひを把握できてゐないことに苛立ちすら覺えた。
確かに、寺院の中に社があつたり、神社の管理を僧が行つてゐた歴史もある。日本の宗教觀の在り方として神佛習合の考へ方があつたやうに神社と寺院の關係や境界線が曖昧な感覺はある。一方で神社と寺院の分け方が今の状態になつたのは明治元年の神佛分離令による影響だ。これらの智識は高校の日本史で習ふ。それでは智識で神社と寺院の關係が理解できてゐるかと云ふとさうではない。根據を示すことができず大變申し譯ないが「地域や家庭の習慣」が土臺となると考へてゐる。そして習慣は何が大事なことなのかを感じ取る「感覺」を養つていく。その「感覺」は「本質」を見抜く力となると私は考へてゐる。
それでは「地域や家庭の習慣」に就いて持論を述べていく。先にも述べたやうに實家の近所には寺院がある。その爲、四月八日は寺院で花祭りが行はれてゐた。それなりに大きな寺院であつた爲、花祭りの規模は大きく、驛前から2キロメートル程の通りを歩行者天國にして夜店がずらりと竝ぶ。近隣からも人が集まり最盛期は五萬人を超える參拜者がゐた。百歳の祖母が子どもの頃には盛んに行はれてをり小學校も休みなつた。小學校の休みは昭和の終はりまで續いてゐたやうである。この域になると習慣と云ふより風俗と言つてもよい祭りである。これだけ賑はふ印象的な祭りが寺院で行はれ、子どもらは毎年樂しみにしてゐるのだから佛教の影響が強いのかと云ふとさうでもない。私自身は佛教徒になつてゐないし、友人に至つては神社と寺院の區別もつかないのだから。
もう一つ子どもらが樂しみにしてゐる祭りがある。七月の夏祭りである。町内ごとに山車を曳き、神輿を擔ぐ。夜には各町内の山車が一同に介し打ち合はせを行ふ。勿論子どもたちは夜店を樂しむ。花祭りに比べ規模は小さく地域の祭りと云ふ感じである。この夏祭りは各町内會が主催で行つてゐる。行政的に一丁目、二丁目と數字で分けられてゐるが、その區分けは産土神社の氏子である。地域の傳統文化、技術繼承として市からの補助金もあり今でも夏祭りは續けられてゐる。それでは氏子意識が強いかと云ふと、町内會の役員として參加をしたり、イベントとして關はつてゐる意識の方が多數である。現に規模が小さくなり、存續が危ぶまれる事態になつてゐると云ふ話題は日本全國で起こつてゐる。
さて、「地域や家庭の習慣」の説明に戻ると、地域の文化、風俗に觸れる習慣が十分にあると云ふことが非常に重要である。加へて、文化、風俗に就いての由來や仕來りを説明できる語り部が必要になる。この語り部は地縁のある者でなければならない。それも代々その土地に住んでゐる必要がある。それは家庭に於る祖父母である。祖父母がゐない場合であつても語り部から聽ける環境にあることが大事であるため、結局は家庭環境が祭りに參加し年長者から話を聽ける状況でなければならない。それ故に家庭の習慣も大事になるのである。
振り返ると私自身は偶然にも生まれながら條件を滿たしてゐたのである。勿論、幼少期に神社と寺院の違ひや宗教的な違ひを意識してゐた譯ではない。ただ樂しく祭りに參加してゐた。多くの人は良くてここ止まりとなるのだらう。先に紹介した私の友人とも一緒に祭りを樂しんだ。しかし、友人らはイベントで終はり、私は幸ひなことに語り部から由來を聽くことができた。意識して聽いてゐた譯ではない。祖父の小難しい話、祖母の昔話を小耳に挾んでいただけである。それを毎年のやうに同じ話を聽いてゐれば意識の中に入り込んで來る。これこそが「感覺」が養はれたと云ふことと認識してゐる。そして何が大事なのか「本質」を感じ取ることにつながつたと考へてゐる。
次に「感覚」と「本質」に就いての私なりの解釋を話させて戴く。學問として神道を學び、今にして考へて見ればと云ふ前提での話である。
私の實家は寺院の近所であるが故に檀家である。實家の土地は元々寺院の土地である。それ故に寺院の會合には祖父も父も參加してゐる。その寺院の墓地には私の家系の墓もあり、親戚らの墓の管理をする墓守的な役割もある。この状況に於て○○宗の信者かと云ふと少なくとも私にその自覺はないし、家庭の中に極めて強い佛教色があつたとは感じてゐない。また一方で、私の實家は○○神社の氏子である。夏祭りの役員として働く父に連れられて運營會議に同席したこともある。檀家であり氏子であると云ふ状況は特別な状況ではない。令和五年の宗教年鑑の調査を見ると佛教系信者數は約七千萬人、神道系信者數は約八千萬人、合計で約一億五千萬人である。日本の總人口は令和五年七月で約一億二千萬人であり、信者數の合計が人口を上囘つてをり複數の信仰を持つてゐることを示してゐる。この状態は今に限つたことではない。過去に遡つても同じ状況である。つまり檀家であり氏子である状況は既に多くの日本人にとつて當たり前となつてゐるのである。その背景の一因は、江戸時代の檀家制度にあるだらう。日本人の元々有してゐる祖靈信仰と葬儀供養を請け負ふ寺院は相性が良く、時代背景的にも寺との關係性を結ぶことに抵抗はなかつたのだらう。
私の家の話に戻るが、私の實家の地域は寺院と檀家關係となることが江戸時代から當たり前になつた。私の先祖を含め當時の住人は精神性の侵害はないと感じたのだらう。それは祖靈信仰を侵すものではなく、祖靈を敬ふ一つの方法として認識することができたからではないだらうか。勿論寺院の僧に對して敬意はあるが、畏まると云ふ關係と云ふより利害關係と云ふ面の方が大きかつたのではないかと考へてゐる。
一方、産土神社は農業での豐穣の祈りや地縁での共同體意識を結びつける役割を強く擔つてゐた。そこに利害關係もあると思はれるが、自然に對する畏れや感謝、生きることそのものに對して祈つてきた年月は寺院との關係性の比にならない。それこそ「意識」に刷り込まれ、何を大事にするのかと云ふ「感覺」は利害關係を超越した日本人らしさの構築の基を成してゐると考へてゐる。私の祖父母は神社も寺院もどちらの關係も大切にしてゐた。父は祖父母ほどではないが、神社と寺院の行事に協力してゐる。その姿に差をつけてゐるやうには見られない。しかし祖父母の言動、父の樣子など言葉では語れないやうな微細な何かを感じ取つたのだと思ふ。それ故に、幼いながらに神社と寺院の違ひを感じ取り、感覺的に神社と寺院の違ひがわからない友人に對して苛立ちを感じたのだと自己分析に至つたのである。
ここまでが「感覺」である。今だからこそ「感覺」を言語化してゐるが、當時は何故そのやうに感じてゐるのか説明することはできなかつた。「感覺」を言語化できるやうになつた理由は「本質」を學ぶことができたからであると考へてゐる。以下「本質」に就いて私の考察を述べていく。
先述したやうに私の生育環境が日本史に興味を持ちやすかつた。日本史が好きと云ふ人は多い。日本史好きにも樣々あるが、私は文化的な側面に惹かれる事が多かつた。祖母の影響で人情物の時代劇を見てゐたからかもしれない。明治・大正の獨特な和洋折衷の文化、江戸時代の町人文化、戰國時代も面白いと思つた武將は古田織部である。このやうに文化の面で過去に過去にと遡つていつた結果、神社と云ふ身近でありながら日本の精神性を支へる建築物の存在が一番氣になつた。また、歴史を遡つていくと彌生時代、繩文時代、舊石器時代となる。考古學としてはもつと過去に遡ることはできる。後に日本と呼ばれる土地にヒトと呼ばれる動物がゐた。しかし、私が過去に遡りたいのはヒトとしての歴史ではなく、日本人の精神性の原點が知りたかつた。それ故、時代として遡れるのは彌生時代後期までであり、それ以前は神話の中にある。
古事記は奈良時代に編纂されたものであるが、内容は過去の出來事を基に傳へられてゐる。時代としては彌生時代から古墳時代だらう。古事記に記載されてゐる内容は全てが事實とは言ひ切れない。しかし、日本人としての精神性は「天地初發之時」が原點であり、遡れる限りの過去なのである。
今の日本は樣々な思想・文化・智識・技術の上に成り立つてゐる。例へば、佛教の傳來と共に寺院建築の技術も入り日本の建築技術は飛躍的に伸びた。鐵砲や蒸氣機關も同じである。日本國外の智識や技術を取り入れたことでの發展は否定するものではない。同樣に言語や文化も影響を受けてゐる。當たり前に使つてゐる日本語は實は佛教用語であると云ふことは多い。日本國外の文化を日本の文化の中に取り込んでイベントとして定着してゐる。クリスマスはイベントとして定着した最たる例であらう。このやうに日本の中に溶け込んでゐる日本國外の思想・文化・智識・技術は數えきれない。現在の日本での生活に於て日本國外の文化・智識・技術を排除して生活することは不可能である。しかし、思想はどうだらうか?たくさんの考へ方がある中から特定の考へ方を自身の思想とするのは個人の自由である。餘程自分に合つた思想があるのであれば、その思想のコミュニティーで暮らせばよい。しかし、日本と云ふ大きなコミュニティーで考へた時に、多くの日本人は日本人の精神性に適した思想で暮らしてゐる筈である。人それぞれ形も色も違ふ思想かもしれないが、研ぎ澄まして最後に殘つた精神性は「天地初發之時」に辿りつくのである。
日本人としての始まり、日本人の純粹な精神性を自覺し向き合ふために古事記の智識を得る事は非常に大事である。何となくクリスマスを受け入れてゐるのと、日本人の精神性を自覺してクリスマスを受け入れてゐるのでは日本人としての純度が違ふ。何故クリスマスを受け入れる事ができるのか理由が説明できない人は多い。それは「感覺」止まりで言語化できないのだ。日本人の精神性を自覺すると云ふ事は何を大事にするべきかがわかつてゐると云ふ事である。受け入れ取り込む價値のあるものと、決して變へてはいけないものがある。それを理解してゐれば説明は可能だらう。この變へてはいけないものが「本質」だと解釋してゐる。
勉強をしなくても、古事記を讀まなくても、日本人の文化の中で生活してゐるだけで樣々に影響を受けた形で「本質」は自分自身の中に一般化してゐる。故に神社と寺院の違ひがわからずとも日本人である。日本國外の影響を受けながら經濟・文化が發展し生活が豐かになつてゐるからこそ「本質」も二重三重に包まれてわかりにくくなつてしまふ。發展の過程で變へてはいけないものを變へてしまふことは許されない。だから「感覺」で止まつてゐてはいけないのである。「本質」は過去に遡れば遡るほど純粹で自覺しやすい。しかし、我々は未來に向かつて行く歩みを止める事はできない。だからこそ敢へて過去を學び、日本人の精神性の原點に觸なければ「本質」を辿り着くことはできないと考へてゐる。
以上の考へに至る爲に、學ぶことができたことが私自身の國學の實踐である。樣々な意見があると思ふが、一個人の考へとしてご容赦戴きたい。