神社の繪馬に願ひ事を書くことができるが個人的な内容が非常に多い。神社への參拜は個人的な願ひ事のためではなく生きてゐることへの感謝を唱へるものである。
日本人を自覺する私たちは、日本人であるために古代日本から紡がれてきた精神性と向き合はなければならない。現在の日本は出生率の低下、農業人口の減少など過去の日本人がその精神性を積み重ねてきた時代背景と大きく變はつてきた。特に高度經濟成長以降は宮崎駿のジブリ映画で表現されてゐるやうに神が身近な存在ではなくなつてきてゐる。日本人の精神性に觸れることなく大人になり子を育てていくやうになつたら、數世代先の日本人は本當に日本人でゐられるのだらうかと不安に思ふ。
今を生きる私の役目は私なりに感じ得てきた日本人の精神性を次世代に傳へていく事である。故に、文字として殘すことは意義がある。微力ながら本稿が日本人の精神性を次世代に紡ぐために役立てば幸ひである。
神社への參拜の話に戻るが、必勝祈願、商賣繁盛などわかりやすい文言にどうしても惹かれてしまふ。「あの神社は勝負の神樣だから試合の前にお參りに行かう」「結婚したいから縁結びで有名な神社に行つてきました」などと會話をしてゐることがある。恐らく、昔の日本人もわかりやすいご利益の神樣を分祀されたのだらう。八幡神社や稻荷神社が多い背景に當時の日本人の考へがあつたのかもしれない。
ここから考へられることは視野を大きく持つて行動することの難しさである。例へば「世界が平和でありますやうに」と云ふ願ひはとても良いが、具體的どうしたらよいか曖昧だ。一方で自分や家族が健康でゐられることを願ふこと、自分の携はる農業や商賣がうまくいくことを願ふことは、幸せに生きることに直結する。自分が健康で豐かに生活できると云ふことは自分の子や孫などの家族も豐かになると云ふことである。子や孫にもそれぞれ家族がある。これを繰り返していくといづれ地域・國・世界が豐かに暮らせる世界を願ふことになる。そのため、わかりやすい願ひ事をしてもよい。ただし、自分自身のためだけでなく、自分の願ひが誰かの豐かさに影響を與へられるものであると云ふことを自覺してゐなければならない。
今の日本の生活に目を向けて見ると、未婚率が年々増えてゐる。未婚と云ふことは出生率が下がる。仕事はコストパフォーマンス、タイムパフォーマンスが重視されテレワークも増えてきた。つまり他者と關はる機會が減つてゐる。さうなると、自分自身だけで完結してしまふ。他者と關はらなければ自分のため以外の行動原理は生まれにくい。具體的に想像できる自分以外の大切な人がどんどん少なくなつてゐることは日本人の精神性が次世代に紡がれにくくなる大きな要因であることを認識すべきだ。
人は何故參拜に行くのか。矢張り豐かな生活を求めてゐるのだと思ふ。私たちは自分のためでも家族のためでも豐かな生活を望む。
「お金が欲しい」「寶くじがあたりますやうに」など經濟的な豐かさをどうしても望んでしまつてゐるやうに感じる。
NHKの特輯で外國の農場で月五十萬圓。日本では低賃金と言はれてゐる介護職は外國でも人手不足らしく八十萬圓を稼ぐことができると放送されてゐた。勿論語學が或程度堪能でなければならないため誰でも海外出稼ぎができるわけではない。また文化や風習に馴染めないと云ふこともあるだらう。海外出稼ぎ以外にも、企業やお金持ちが税金對策として海外に據點を持つと云ふことは昔から行はれてゐる。
私自身も家庭を持ち子育てする年齢となり、經濟的な側面から日本で生きていくことを考へると、勞働に對して納めてゐる金額の多さや、物價が高くなる一方の状況に十年後、二十年後の子どもの生活、自身の生活に不安を感じてしまふ。しかし、海外への出稼ぎや據點を外國に移したいとは考へてゐない。勿論私自身の語學力と云ふ問題もあるが、外國で今以上に豐な生活ができる保證はない。比較できるほど外國の生活を知つてゐるわけではないが、日本で暮らす心地よさも知つてゐる。何より育つてきた日本の文化と風習が好きなのである。
經濟的に豐かであることに越したことはない。しかし私自身が日本の經濟を大きく動かす力はなく、税金の制度を改正するやうな政治力もない。つまり私の役目ではないのである。人はそれぞれ大切に思つてゐることがある。政治ができる立場にゐる人は政治で日本を豐かにすることが役目であり、企業家は經濟から日本を、農業や醫療、教育と云ふ側面などそれぞれの役割がある。かうした職業的なことだけでなく、地域のお祭りが好きで參加してゐる、日本の自然や文化、歴史が好きと云ふことも日本を豐かにする役割を擔ふ者として十分な理由だ。
樣々な考へを持つ個人が各々の役割を擔ふことで日本の豐かさは維持されていくと考へる。しかし、個人の利益を追究し次世代に日本人の精神性を紡ぐと云ふ目的を失つてしまつてはならない。豐かな生活のために、經濟性や合理性を優先する場合、過去の風習を合理的ではないと排斥してしまふ可能性がある。極論的な例えであるが、日本語と云ふ言語は世界から見れば合理的ではない。まづ日本以外では使用できない。次に「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「alphabet」と複數の文字を使用する。三つ目は、文法構造は多彩で意味を變化させず文の構造を變化させることができる。逆に文法構造により文章の意味を意図的に變化させることもできる。端的に言つてしまへば日本語は複雜で扱ひ難いのである。しかし、日本の發展には外國との繋がりは必要不可缺である。故に合理的に公用語をEnglishにし、それが當たり前の時代になれば日本企業の市場は世界に廣がり經濟的な發展をするかもしれない。
一方で言語とは文化そのものであり、その國のその地方の考へ方である。言語を統一すると云ふことは物事の捉へ方考へ方が畫一的になり獨自性が消えていく。つまり日本が積み重ねてきた歴史や風習はいづれ消えてしまふ原因となりかねない。それだけでなく、言語と云ふ獨自性は文化や考へ方の獨自性であり他の人には思ひ附かない發想ができる可能性があると云ふことである。世界中の人が同じ物差しでしか考へることができないのであれば、經濟的な發展とは逆に衰頽することすらあり得る。故に文化的な側面からも經濟的な側面からも合理的ではないからと言つて言語を變更することはあつてはならないのである。このやうな事態にはならひと思ふが、さうはならないために自分自身の行動は日本人であるための精神性を次世代に紡ぐためであることを強く認識し各々の役割を果たさなければならないのである。
最後に、私なりに日本人の精神性を傳へるための役割を擔ひたいと思ふ。
過去の日本人の精神性を今に傳へる手段として日本各地にある昔話や民話を讀んで欲しい。本稿の主題に沿つた一例を紹介する。
姥捨て山と云ふ昔話がある。棄老傳説を題材にしてをり日本各地にある民話である。内容としては法令や口減らしのために高齢の親を捨てる話だ。先の經濟性・合理性にも合致する。しかし、姥捨て山を民話として後世に殘さうとした意図を考へて欲しい。この民話から日本人の精神性を感じ取るために考へると云ふ行爲が大事なのだ。
姥捨て山の話は「難題型」と「枝折型」の二種類に分類されてゐる。「難題型」は、「年老いて働けなくなつた者は山に捨てよ」と云ふお觸れにより子が親を捨てようとするが密かに家で匿つた。隣國から難題を持ちかけられ村は窮地となるが、老親の智慧で解決する。老人は役に立たないと云ふ考へを改め老人を大切にするやうになつた。「枝折型」は山に老親を捨てるため背負つていく際に親が枝を折つて撒いてゐた。子は何故かと尋ねると「お前が歸るときに迷はないやうに」と答へた。子を思ふ親心に打たれて親を連れ歸つた。
「難題型」は敬老を傳へるための内容だらう。時代背景も江戸時代の儒教が影響した民話と考へられる。「枝折型」は恐らく時代背景問はず饑饉や貧困により口減らしの風習が元となつた民話と考へられる。どちらの型も親を捨てたいと子が本氣で思つてゐるわけではないこと、親は捨てられるとわかつてゐても抗ふやうな表現はないことが共通してゐる。
實際には捨てられることに抗ふ者もゐただらう。豐かな地域や時代ではそもそも親を捨てると云ふことをしなくてもよかつたはずだ。
姥捨て山の民話は、「自分や子どものために親に死んでもらふことは仕方ない」「親も子のために死を選ぶことを受け入れる」本當にそれで良いのだらうかと云ふ問ひかけのやうに感じる。柳田國男の遠野物語に「でんでらの」と云ふ話がある。「でんでらの」も棄老傳説の民話だが、捨てられた老人たちは聚落をつくり生活してゐる。村の畑を手傳ひに行くこともある。老人たちは家族の元を離れ自力で生きていける限りは生活し、いづれ死ぬ。實際は「でんでらの」と同じやうに捨てられてもすぐに死ぬと云ふわけではなかつたのだらう。親を捨てると云ふ非道徳的な行爲に對して精神的な防衞の意味で、本當に捨てたいと思つてゐる子はゐない・親は子を思ひ捨てられることに何も言はないと云ふ親子愛的な民話になつていつたのだらう。
この棄老傳説に對して私の解釋は、老人は死んだ方がよいと云ふことではない。親と子は何のために捨てると云ふ行爲を受け入れてゐるかと云ふと、次の世代のために子は非常な決斷をして、親は身を引いてゐることを讀み取らなければならない。捨てられる親は、次世代のために協力し共に豐かな生活を築いていけるうちは協力し、自分自身が次世代のために障碍や枷になつてゐるなら退かなければならないことを役割として認識してゐるのだ。そしてその役割は子に引き繼がれていく。
自分が良ければそれでよいではなく、自分が次世代の爲に役割を擔へてゐるかどうかである。その役割の中の一つの選擇肢に死と云ふものもあるのだ。
時代によつて役割の果し方は變はつてくるだらう。過去の日本人は血縁・地縁と云ふわかりやすいつながりで次世代に日本人の精神性を紡ぐことができてゐた。しかし、これからは血縁・地縁を頼れる場面は少なくなつていく。そのため、日本に生まれた日本人全員を地縁として捉へ次世代にその精神性を紡いでいく意識が必要になるだらう。日本人としての意識をより高次に持たなければ日本の精神性を紡ぐことはできない。過去と違ひ現在は傳へる手段に不足はない。各々の役割を各々のやり方で果たして戴きたい。