去る三十一日、有志等は早朝から千葉県富津港に相集ひ、鹿島丸に乗船し東京湾の海保を巡つた後、マダコ釣りを楽しんだ。釣れた者、釣れぬ者それぞれ喜哀顕わし懇親会に移つた。
東京湾海堡の歴史-概説-
※海堡(カイホウ)とは、人工の島に造られた砲台です。江戸時代までは、海中に造られても、陸上に造られても大砲を備へる場所を「台場」と云つてゐましたが、明治維新以降は陸上にあるものを「砲台」、人工島に造つたものを「海堡」と云ふやうになります。
●黒船の脅威
嘉永 6 年(1853)、アメリカ東インド艦隊のペリー提督が浦賀に来航し、鎖国をしてゐた日本に開国を迫りました。外国艦隊に脅威を感じた幕府は、江戸に尤も近い品川の守りを鞏固にするため、台場を建造しました。品川台場の水深は 2~3mでした。ペリー来航以前から、江戸幕府は東京湾への敵艦の侵入を防ぐ計画を作成し、観音崎~富津岬を結ぶ線を最重要防禦線としてゐます。そのときにも海中に台場を造る案も出されてゐましたが、実現可能な品川台場を先に建設しました。
●東京湾口に砲台群が造られる。
明治維新後、新政府は、首都「東京」を護るため、東京湾海防計画に取り組みました。初代参謀本部長の山県有朋は、お雇ひ外国人に東京湾を視察させ、東京湾の海防に就いて提案書を提出させます。
さまざまな検討の結果、まづ、観音崎、猿島、富津などの海岸や島
に砲台を建設しました。
●沿岸域の砲台だけでは護りきれないと考へ、海堡が造られる。
しかし、これだけでは外国の軍艦の侵入を防ぐことができないと考へた陸軍は、富津岬の尖端の水深は 5m のところに最初の海堡を造りました。この海堡は富津海堡と呼ばれてゐましたが、後に第一海堡となります。当時の大砲の射程距離が約 3km だつたことから、約 2.5km の等間隔で富津と観音崎の間に更に海堡を二つ建設することにしました。これが、第二海堡と第三海堡です。第二海堡を建設し始めた直後の明治 24 年(1891)、清国の巨艦 6 隻が日本を威圧するため横浜に姿を現しました。予想以上に清国の軍艦が大きかつたことに危機感を覚えた陸軍は、首都を戦艦から守るため、海堡建設に力を注ぎました。
●海堡の建設は波浪との闘ひだつた。
第二海堡は水深 8~10mと、第一海堡より深い場所に建設されました。第三海堡の建設地は水深約 40mと、第二海堡よりも深く、更に東京湾の中でも波浪と潮流の激しい場所でした。また、台風によつて工事途中で何度も破壊されてしまいました。たいへん厳しい海象条件のなか、第三海堡は着工から 30年後にようやく完成しました。
●海堡建設に挑んだ技師たち東京湾海堡の建設工事を手がけたのは、当時、陸軍少佐の西田明則です。明則は軍人の定年後も陸軍技師として海堡建設に従事しました。明則は明治 39 年(1906)に亡くなり、第二海堡・第三海堡の完成を見ることはできませんでした。西田明則の偉業を賛へるため、横須賀市の衣笠公園に「西田明則君之碑」が建てられてゐます。
明治 33 年(1903)から明則のあとを引き継いだのが伴 宜(バン ヨロシ)です。伴は東京帝国大学土木科を卒業後、陸軍に入つた技師技師で、後任の田島真吉とともに近代技術を導入しながら、第二海堡・第三海堡を完成させました。
●海堡の建設は、伝統技術と先進技術の融合
東京湾海堡の建設の基礎には、日本の伝統技術があります。伝統技術とは、城の石垣や橋脚の土台の石積み技術、土工や大工の技術、和船による採石や木材の運搬・投入技術のことです。更に、明治時代に取り入れた潜水器や鉄筋コンクリートケーソンなどの最尖端技術の融合が第三海堡を完成に導きました。