歴史の學び方と思想・信仰の重要性 編輯員 岡 學歩
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編集部 •
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門前町と云ふ言葉をご存じだらうか。その意味は、廣義では寺院、神社、城の周邊に形成された町のことである。狹義には寺院を門前町、城を城下町、神社を鳥居前町と呼ぶとのことだ。寺院、城、神社は、各々が獨立した關係ではなく交はりながら信仰・思想・文化を形成してゐる土地も多くある。だからこそ歴史ある土地は魅力的な觀光地となり今なお榮えてゐる。このことは日本人として非常に誇らしいと感じてゐる。一方で危機感もある。觀光として文化を守り、經濟的に潤ふことは喜ばしいことではあるが、信仰・思想が蔑ろになつてゐないだらうか。日本人がどのやうに現代に至つたのか、思想・信仰の點から歴史を學ぶ姿勢を考へてみたい。
觀光地として名を馳せてゐる地域は歴史ある土地であることが多い。歴史ある土地と云ふことは、昔から人の往來が多く、經濟や文化が發展し、更に人が集まる都市へと成長してく。では何故その土地に人が集まるのだらうか。先づは地理的要因である。災害に強い地盤、水源の確保、豐かな實りのある山・川・海など樣々な要件により人が集まる。最初は狩獵・採集のために一定期間生活しては、別の場所へ移動すると云ふことを繰り返していただらうが、次第に定住することで聚落がつくられる。各々の聚落でその土地の思想や信仰が生まれ、文化や政治となる。思想・信仰のための施設や、文化・政治のための施設がつくられることで、人はその施設を中心にした土地に集まつてくる。この仕組みが歴史ある土地が觀光地となる要因だと考へる。
原初の日本に於て、人が集まりやすい土地とは湧水地や山である。生活に必要な水源を確保することは極めて大事だつた。繩文時代の多くの遺蹟は山間部で發見されてゐることからも水や食料の確保から山を中心に生活してゐたことがわかる。更に、特徴的な山は遠くからでも確認することができ、移動の際の目印になる。このやうに湧水地や山を大切にする考へ方が思想・信仰となる。現在では田舎と呼ばれるやうな山間部には、日本の原初的な思想・信仰の跡を垣間見ることができるのである。その後、農耕技術が廣まり、生活の基盤が山間部から平地に移る。そこでも湧水や山から流れる川など水の重要性は益々高まる。一方で水害が發生すれば實りはおろか人の命も奪つていく。太陽もさうである。植物の育成に日光は欠かせないが、日照りや、日光が不足となれば植物は育たない。このやうに自然は大事なものである一方で恐ろしいものでもある。だからこそ、自然に對して感謝と畏れと云ふ感情が生まれ、思想・信仰の中で祈ると云ふ行爲が定着していつたのだらう。
自然に對して祈りの對象となる物を磐坐、神域と定めた場を神籬と呼び、後に神社を建築するやうになつた。祈りの場は信仰・思想の場であるとともに政治の場でもあり、そこでの考へ方や創造物は文化となつていく。必然、現在に於て歴史ある神社や有力な神社の周邊は榮え、その土地獨自の文化は觀光の對象となる。このやうに神社の周邊に形成された町のことを鳥居前町と呼ぶと云ふことだ。
ここまでは、特定の地域の話ではなく、原初の日本に於る各々の地域で自然發生的に現れた聚落と思想・信仰の形成に就いて一般論を述べてきた。現在の日本人には概ね共通した日本の歴史がある。しかし、私たち個人は如何にして日本の歴史を受け止めてゐるのだらうか。自分自身の中に日本人としての思想・信仰があることを自覺してゐるだらうか。自覺してゐるならば、どのやうな歴史を經て今の思想・信仰に至つてゐるのか理解できてゐるだらうか。樣々な疑問が湧き出る。
この疑問が神社などの觀光地化に現れてゐると感じる。本來、神社とはその土地で住まふ人々の祈りの場であり、生活に必要なことを話し合ふ場である。現在に置き換へれば市役所や縣廳に近いだらう。市役所、縣廳でどのやうな情報を得るかと言へば、市や縣の強みを活かした取り組みや、災害對策や課題を解消するための取り組みなどの政策に關することだらう。今現在のことは市役所・縣廳の政策から見えてくるが、百年前、二百年前となるとどうだらうか?千年、二千年前となればそれは歴史的な建造物や關聯する書物などから當時の樣子を教へてもらふしかない。考古學や民俗學と言つた學問の視點が必要になる。
このやうな智識や興味關心を持たず、有名だからと云ふことで觀光地を訪れれば、美しさや大きさなど視覺的に刺戟の強いものが觀光の目玉となり、歴史的な意義や思想・信仰は蔑ろになつてしまふ。觀光地として生き殘るためには視覺的に「映える」必要があることに對して否定はしないが、觀光産業としての側面ばかりが取り沙汰されることに現代の日本人の宗教や信仰に對する理解の低さを物語つてゐると感じる。
さて、この問題の解決策は、歴史を學ぶと云ふことである。まづは自分自身がどのやうな影響を受けて今に至るのかと云ふ自分史、そこには必ず先祖が關はるため、今の自分自身に至るまでの系譜を學ぶことだらう。そして、先祖の住んでゐた土地、その時々の思想・信仰がどのやうに影響してゐたのかを學び、今の自分の考へ方と結び附けていく必要がある。この視點が學校で學ぶ歴史に缺落してゐると感じる。故に歴史や歴史的建造物を自分事として捉へることができず、思想・信仰に觸れもしない觀光になつてしまつてゐるのだ。
それでは、どのやうにして歴史を自分事として學ぶ基盤を築けばよいのだらうか。その答へは日本人の自國に對する思想・信仰・宗教に對する理解を高めることである。日本の教育の中で日本史は事實と文化を學べるが、思想・信仰・宗教への言及が極めてすくない。それは、なぜそのやうな事實に至つたのか、なぜこのやうな文化となつたのかと云ふ理由を説明してゐないことになる。日本の思想はその時節に於る信仰や宗教から形成される。勿論日本の成り立ちから歴史は積み重ねられていくため、原初の信仰や宗教を知らなければ、その後に起こる思想的な對立や文化の釀成の意味がわからない。
日本史がつまらない理由は意味がわからないからである。これでは、思想・信仰・宗教はどころか歴史を學びたいと思へる人は増えない。つまり、教育の部分で日本史の教へ方に改革が必要なのだ。
日本人は外國人の信仰や宗教に對して大らかな接し方をする。背景として八百萬の神々と云ふ考へ方があるため、外國の神樣も多くの神樣の一つであると、相手の信じる神樣を尊重できるのである。ただし自分たちの信じる神樣を互ひに尊重することができる關係性である限りと云ふ條件が附く。
現在に生きる日本人の多くが特定の信仰・思想を有してゐると云ふ自覺はない。しかし、自分自身の生活が大きく變容させられる事態を感じた時、極めて強い拒否感を示す。最小單位では個人、最大單位では國家となる。歴史的な事例を舉げるならば、戰國時代に於て宣教師によるキリスト教の布教は文化や智識・技術に於て受け入れられてゐたが、日本人の根本的な思想・信仰を變へるには至らなかつた。
現在に於ても、日本人・外國人問はず樣々な信仰を持つた人同士が關はる際に、互ひの文化風習の違ひによるトラブルはあるが、關はりが斷たれると云ふことはない。しかし布教など思想・信仰に介入する行爲があると、急に關係性が斷たれる。若し、本當に信仰してゐるものがないと云ふことであれば、布教によるメリットを受け入れてしまふが、それはない。つまり自覺はないが、確固たる思想と信仰が日本人としての精神性に刻まれてゐるのである。
日本に於る神道は自然に對する感謝と祈りに始まる。信仰しようと思つて信仰が始まるもではない。既に日本人の中にあるものだ。そこに意図的に信仰すると云ふ宗教の形にそもそもの違和感を覺えてしまふのだ。更に布教や意図的な信仰と云ふことに對して、マイナスイメージな出來事を記憶してゐる。典型例がオウム眞理教による一連の事件や、統一教會の問題などである。これらの背景が、特定の宗教を信仰することは惡、宗教に勸誘する人は惡人と云ふ極端なイメージが無意識化で刷り込まれてゐる。そしてそのやうな状況であることを説明できないない儘に、次世代にも刷り込まれ、日本人の思想・信仰・宗教に對して意識しないことが正しく、意識する人や信仰を持つてゐる人は變はつてゐるまたはヤバイ奴と云ふ認識になつてゐるのではないだらうか。ここまでくると日本人の宗教への智識・理解・有效活用する能力、つまり宗教リテラシーは皆無と言つても良い状況だ。惡だと拒絶するか、騙されるかの二極化しかない。この状況では、他の文化の良いところを受け入れ、成長・發展する力も衰へ、受け入れるべき内容と拒否するべき内容を判斷し考へる力も失はれてしまふ。かつて日本が外國の植民地にならず、侵掠を受けなかつた背景に思想・信仰の自覺とそれを基準にした判斷力があつたからだ。今の日本人のそれが可能だらうか?できないのであればそれは國家の危機である。
日本には確固たる信仰があること、自分自身は無宗教ではなく日本と云ふ思想と文化に生きる事を選んでゐることを自覺しなければならない。それだけでは思想・信仰・文化に附け込んだ詐欺に騙されてしまふため、宗教や倫理の智識を正しく得る必要があるのだ。
しかし、今の日本の教育體制では教へていくことができない。いかにも欠陥な教育である。そのため、思想・信仰を自覺したものが能動的に學び初めて宗教リテラシーが得られる。
自覺してから學ぶのでは子どもの宗教リテラシーはどうなるのか?スマホで情報に簡單にアクセスできてしまふからこそ、早期に思想信仰宗教に就いて正しく學ぶ必要がある。子どもたちを思想的に無防備にすると云ふことのリスクを考へてほしい。日本と云ふ國または個人としての自分自身が、思想的に乘つ取られたことにも氣づかず、その危機を危ぶむ發言を宗教的だと排斥するやうになつたら日本は形骸化し中身のないものになつてしまふ。
思想を持たず思考しないものほどコントロールしやすいものはゐない。ここまで考へれば思想や宗教教育を行はない選擇がどれだけ危ういかがわかる。しかし、現状で思想・信仰・宗教の教育を即時に行へるやうにすることは難しい。だからこそ、自覺あるものが發信してくしかない。この文章もその一役を擔へてゐることを切に願ふものである。