清原貞雄著「国学発達史」考四

第一章 徳川時代以前に於ける国学

第三節 法制に関する研究

●日本では 天智天皇の近江令が最初である。それを改正したのは 天武天皇の大宝律令。さらに其れを改正したのが 元正天皇の大宝令である。大宝令は今でも残つてゐる。それらは唐の制度を母法としてゐる。しかしそのまま模倣した訳ではないので、一種の国学と言へよう。改正を重ねて国情に合はせて発展し、延喜式※などは日本的になつてゐる。

※延喜式とは、「養老律令」の施行細則を集した法典。延喜五年は、勅撰集第一目の『古今和歌集』の編纂が開始された年ある。 。

本居宣長翁は玉勝間の中で「延喜の式、すべて五十巻にして、はじめ十巻は神祇式也、されば、朝廷天の下もろもろの公事のうち、五分が一つは神事にて有し、これを以ても、古ヘ神事のまつりごとの、重くしげく、盛なりしほどを、思ひはかるべし、もろこしの国などは、神を祭ること、いとおろそかにして、周の代よりこなたは、いよいよなほざりに思ふめり、然るを此神の御国の人、さるたいたいしきカラ国ぶりにおもひならひて、よろしからめや」「玉勝間」巻六「延喜式五十巻にして十巻は神祇式なる事」

また翁は「うひ山ぶみ」の中で、記紀、万葉、六国史に次いで見るべき書として延喜式をあげている。「延喜式の祝詞の巻、又神名帳などは、早く見ではかなはぬ物なり」と。

 筆者考:近江令は支那の法制度を取り入れたが、殆ど模倣であり日本的な部分は少ないが、その後何度かの大きな改正で日本的な法になつたと言へよう。現時は支那に変はつて西洋的な法の模倣であり、それが日本的になるには時間を積み重ねなければならないと言へる。つまり日本的な法とは「神事」に基づく法を多く取り入れなければならないと考へる。