復刊六号(平成二十六年十月一日)より
◆八月五日、六日の両日に渡り、朝日新聞が所謂「従軍慰安婦」について虚偽の報道であつたと紙面に掲載した。しかし謝罪がないと世間が騒いだため、九月十一日に虚偽の報道について「おわび」をした。
◆三十余年に渡り国の威信に関はる虚偽の報道をし続けた理由は「皇国を貶める」為に他ならなかつた。
◆この謝罪を受けて、他のマスメデイア等はここぞとばかり「朝日叩き」に余念がない。つまり朝日を「悪」に仕立てて、己の「善」を世間などに広く訴へてゐるのだ。しかし、この構造は朝日新聞の捏造記事と、何ら変はらない事に気づかねばならない。何故なら朝日の記事が「善」と看做す時代もあつたのである。
◆神道には「悪」と言ふ概念がないといはれてゐる。「悪」ではなく、罪を犯してゐるだけなのだと。支那や欧米の善悪論なれば、善のアンチは悪であり、悪のアンチは善となる。これこそ文字通り「矛盾」が生じる。また仏教やキリスト教のやうに善悪に基準を設け、その教へに背けば当然「悪」となる。世界を見渡せば、宗教的要因で戦争及び紛争が絶へないのも、善悪論に基づいてゐる。また陰陽なる区別も当然争ひの種火になり得よう。
◆稲を育てると言ふことは、神道と密接に関係してゐる。稲を育てる過程は、自然の理に従はねばならぬが、虫や草を取り除かなければならない。かう考へれば一見矛盾してゐるやうに思へるが、虫や草は稲にとつて「悪」ではなく、罪を犯してゐるだけなのである。よつて、虫や草には本来居るべき所に移つて頂くのである。かうして数々の命を頂いて稲を育てて行くのである。命を頂く以上「感謝」の念を忘れてはいけないのが、神道なのである。
◆話は逸れたが、右記のやうに日本には善悪論は無いと言つて過言ではない。朝日新聞の長きに渡る重大な嘘は、「悪」ではなく、大きな罪を犯していたのである。罪や穢れは祓うべき事なのである。そして先の稲作の話に例へれば、朝日新聞は本来居るべき所に移ればよいのである。然様に感じれば、善悪を超へた所に真理があると言へよう。
◆皇国は外つ国の思想・哲学・宗教を根本としてはならない。その訳は平田篤胤翁の「古道大意・下巻」に記すに、『(前略)世の学者達が、ひたすら外国の説にのみ惑ひ溺れて、我が国のこのやうに尊いことを知らず、偶々このやうな真実の説を聞いても、信じることもせず、却つて論破しようとさへ致すのは、返す返すも心得違ひなことです。また世間の外国びいきの学者どものよく言ふことには、我が国は小国で、また国の開かれたのも遅かつたなどとよく申しますが、まづ我が国を小国小国と言つて、卑下しようとしますけれども、国土ばかりでなく、すべての物の尊いと卑しい、良いと悪いとは、形の大小によるものではないのです。数丈の大石も小さな玉に及ばず。また牛馬象などの獣は、大きいけれども人には及びません。どんなに広大な国だと申しても、下国は下国、狭く小さいけれども上国は上国です。(中略)中には草木も生えず、人間も住んでゐない所がありますが、それでもこれを上国と言ふのか。それまでもなく、近くは我が国の中でさへ、上中下と分けてありますけれども、それは国の大小をもつて、お定めなされたのではなく、国の産物一体の風土をもつて、上国下国の差別が立つたものです。また我が国が開かれたのが遅かつたと言ふのは、智慧がつくのが遅かつたと言つて誹るのは、実は思慮が至らないからです。その訳は、我が国は万国の祖国、本国であるからにして、自ずから地気が厚く、申せば大智、大器量の人の智慧の開きが遅いやうなものです。』と。
◆朝日新聞は虚偽の報道をして、皇国を貶めた事は事実であるが、それを外つ国の思想・哲学・宗教を根本とし善悪二元論を以て朝日を「悪」として糾弾すれば、己も必ずいつかは 皇国に於いて「悪」になるのである。