復刊五号(平成二十六年七月一日)より
前号では、日本語と国体とが同一であること、よつて日本語への攻撃、冒涜、愚弄の類は同時に皇国へのそれらと同じであると拙い文章ながらも書かせていただいた。
また、日本語の破壊とは、書記言語の問題にとどまらず、正確なアクセントの破壊であることも。 主にマスコミの主導による馬鹿の一つ覚えのやうにアクセントを語頭につける、所謂平坦アクセントがどれだけ音律の側面から皇国を蝕んでゐるかを書き記すことができ、これでもう愚生が後へ続く者へ渡すバトンは無いと思つてゐた。
福田主幹の許可を得て、今回は既にウェブ上に発表されてゐる世界皇化浪人・下山陽太氏の論考を援用しつつ言葉と皇道の問題を取り上げてみる。 先づは、音律と云ふ以前に言葉は音声、音響である。心内語なども音声言語あつての心内発声である。
大脳生理学で云へば、言葉が言葉になる前の神経信号がある。意味や想念がこもつた言葉と云ふ定型を獲得する前のまだ不定型な神経信号があるからこそ、その「浮きし脂の如くして」の不定型の言葉未然のうねりから建築物の様な書記言語に至るまで、日本ではその本質を言霊、と称してゐるのである。
恥づかしながら海外の哲学にかぶれてゐる時分は「言葉とは伝達性・効率性の悪い記号に過ぎない」と粋がつてゐた。しかしながら現在では言霊としか云ひやうのない神秘と、その言霊がそのまま国体であると云ふ稜威にますます向学の心を奮ひ立たせてゐる。
ただし、前号に書いたやうに海外の哲学の精髄がずつと日本的、言霊、音霊としての省察に優れたものがあるのは紛れもない事実であり、さう云ふ海外からの成果の取り込みには平田篤胤大人のやうに鋭敏でありたい。 言葉の音響的側面で云へば、例へば日蓮のやうな朝敵を代表とする鎌倉仏教の鐘の音は、日本語の「私」とは違ひ、英語のアイに近い。
鎌倉仏教の鐘が英語や一神教圏の主語と違ふのは、もつとえげつない弱肉強食、声の大きな者や数の多いものが正義であると云ふ肥大した自我をそのまま音に転写したやうないぎたなさだらう。 翻つて神社の鈴の音はどうだらうか。
そこには肥大した自我どころかそもそも日本語の特性のやうに主語すらないかのやうだ。
とは云つても、伝達時に主語がなく意味が通じずらい訳でもない。
神社の鈴の音こそ、個を超えて、音響と鈴と云ふ神具で辺りを浄化し、音はそのまま清らかに消散してゆく涼やかなものである。
ここにはキリスト教寺院や鎌倉仏教の鐘のやうな、俺が俺がと云ふ我の強さは欠片もない。
敬神・崇神の心や祈念に感応する、祓ひ浄める音の魂、音霊である。
靖国神社や護国神社、出雲大社など大きな神社から地域に密着した小さな稲荷様、八幡様に至るまでこれは変はらない。 余談ながら、カント哲学者、中島義道氏による『うるさい日本の私』を繙けばいかに選挙カー(しかも選挙法で候補者の名前の連呼しかできない空辣なものだ)、灯油や廃品回収の移動営業、公共機関でのおせつかいな注意などがいかに気狂ひぢみてゐるかがわかる。 かう云つたものは当然皇国への音響汚染とも言ふべき害悪である。
閑話休題、前号では言霊、音霊と云ふものがぴたりと国体と重なり、あるいは同一化した汎言霊論と云ふべき拙論を展開させていただいた。
大胆に表現してしまえば、宇宙・宇内と言葉の霊、音の霊、かうした目に見えないエネルギーが全てを覆ひ尽くしてゐると云ふことである。
キリスト教では父と子と精霊の三位一体と云ふが、身近にキリスト教の信徒、神父や牧師がゐたら尋ねてみるとよい。
精霊とは一体何かと云ふ質問に、満足のいく説明のできる者はおそらくいない。だからキリスト教はいけないと云ふ訳ではない。、実際に「精霊はわからない」と公言する者も多い。
が、愚生はこの精霊とは、言霊や音霊と云つたエネルギー、何もかもを産み出す混沌の高運動体、つまり汎言霊・汎音霊そのものと確信する。
国体と云ふものが、また皇国、更には我々一人一人が硬直した機械の如きものではないのはこの御霊の働き=霊的エネルギー体の全き充溢のおかげである。
C・G・ユングの集合的無意識の概念とも似てゐる。いや、晩年に神秘主義へと傾倒したユングがかうした概念へと辿り着いたことは興味深い。 福田主幹が前号に書かれた、「尊皇とは思想に非ず信仰なり」とは、かうした目には見えない世界を信じること、それだけである。西欧流に言へば神秘主義であり、皇道とは思想ではなく信じる心、 天皇尊への敬心、神々への感謝、などなどが求められてゐるだけであり、ひとたび気づけばその一歩はあつけないほどのものである。
ただ、こればかりは気づかなければ理屈・論理ではないから教化・皇化できると云ふ訳にはいかない。
無意識、意識、物理的世界、更にその先の人智を超えた世界がある。それら全てが言霊、音霊によつて充ち満ちてゐる。 世界の姿も先に挙げた晩年のユングと同様に神秘主義とともに見なければならない。合理だけでは捉へきれない。
「復古には必ず神秘主義、信仰、精神の力が必要である」とは福田主幹の言葉ではあるが、愚生も同感である。
目に見える世界、合理の世界しか見ないものは核心を掴まぬまま右往左往するだけであらう。
下山陽太氏が皇道日報電子版に寄せてゐる短めの論考、「ナチスは独逸の神代派也」はその題名通り、神代派……一つの神秘主義、信仰としての運動がナチスであつたことをまとめてをられる。 ここで、ナチスと云ふのは現在では兎に角当時としては国家社会主義独逸労働者党政権下の独逸として、彼らがさう称してゐたやうに大独逸国(グロス・ドイチュラント)と拙稿では表記する。 第一に大独逸国の失敗は、まさしくニーチェが唱へるやうにキリスト教によつて去勢された欧州に、ゲルマン神話の信仰を復古させられなかつたことである。
大独逸国の歴史の浅さ、一般民衆への教化よりも別の問題の教化が優先されざるを得なかつた状況は充分にわかる。
若し大独逸国がキリスト教に抗ひ、ゲルマン神話の教化、復古を遂げたらどうなつていただらう。 戦争に負けても、戦後ドイツには大いなる遺産が残されたはずである。 まさしく、目には見えないゲルマン神話を一般民衆の一人一人が信仰として生きると云ふ遺産が。 また、ニーチェの哲学も神代派と歩みを揃へてゐる。
ニーチェの哲学は表層的に読めば虚無主義に感じるかもしれない。だが、よく読めばそこには生そのものをこれ以上ないほど肯定する意志の力に満ちてゐるのが納得できる筈だ。
『力への意志』(『権力への意志』と云ふ邦題はゐただけない」)と云ふ著作名からして、ここにはあらゆるエネルギーへと分化する以前の流動的な原エネルギー、意志と云ふ素晴らしい最後にして最終的な資源……想像力や目に見えないものを感じる力と並んで……を実感できるであらう。 ニーチェがあれほど著作内でキリスト教を邪教と攻撃したのも、単に欧州の精神を去勢しようとしただけではなく、人間の生を禁止、禁忌による懲罰の思想によつて貶めるものであつたからだ。 ゲルマン神話への復古は死後、天国と地獄に振り分けられる懲罰精神とは無縁である。
死して後、乙女の軍神ヴァルキューレによつて天上の国ヴァルハラへ迎へられ、そこでラグナロク(終末の戦ひ)に備へるのである。
ここにはキリスト教からの切断、キリスト教から人間の精神を解放しようと云ふ強い意志がある。 また、ニーチェの永劫回帰の哲学もまた生の肯定である。
迸りのやうな最大級の生の極点を味わつたのならば、その極点を含んだ人生を何度反復してもよいと云ふ偉大な肯定。
最後の偉大な生の肯定に力点を置いて読むべきであらう。
ここではもう死が一つの不可逆的な場所ではなく、キリスト教的死生観など笑ふやうに幾度も生まれて我が身の生を生きようと云ふ意志がある。 指摘するまでもなく、この哲学には大楠公の「七度人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん」がたやすく想起できる。 大楠公の言葉もまた、死して入滅しかない仏教からの偉大なる切断の一例である。
ニーチェ哲学の概念に超人哲学もあるが、これとて、日本的に考へればひとたび尊皇、皇道に目覚めたのならば……実際には誰しも内奥にはある筈なのだが……我々の裡にも神性があるのである。またその厳粛な、奇蹟のやうな事実に気づいたならば裡なる神性を曇らせることはできない。
そして話を汎言霊論、汎音霊論に戻せば、全てが混沌の、造化生成の、なにもかもが深奥では一つである中に於て、神性があるとはまさしくニーチェ的に表現すれば超人そのものである。
斯様にニーチェは皇道と相通ずる哲学であり、尊皇も大独逸国の復古も不可視のもの、信仰、神秘主義が必要である、と共通してゐる。
神秘主義、信仰、目に見えないもの……かうした事柄に就いて「己は自分の目で見たことしか信じない」などと頓珍漢な言辞を抜かす輩もゐる。 斯様な連中にはかう言つてやるとよろしい。ガリレオを殺したのはまさしく自分の目で太陽が大地の上を東から西へ回つてゐると信じて疑はなかつた連中である、と。
何も合理主義、科学を全否定してゐる訳ではないのである。合理も科学も必要であり、ただそこで幼稚な程度の唯物論で凝り固まる必要など全くないのだ。
唯物論と聞けば左翼思想を想起される方も多いと思ふ。
わたしの親しい者の父親が赤旗を購読してをり、共産党員かどうか不明なもののその思想を支持してゐることは間違ひない。 だが、その家で飼つてゐた猫がもともと身体が弱く、惜しくも夭逝してしまつた際に友人の父親は「丈夫な身体になつて、またうちにおいで」と言つたさうである。
ここに日本人の心情がある。基本的にかうした分け隔ても序列もない慈愛の心が日本人の心なのである。
これもまた下山陽太氏の論考「吾、皇国社会主義即高天原主義を標榜す」の通り、いたづらに左翼陣営だからと排斥してはならないと痛感する。
かうした日本人の美しい心情がある限り、少なくとも話が双方ともにできるのである。皇国に就いて語りそして動けるのである。
大独逸国は国家社会主義独逸労働者党のエリート幹部達だけが神秘主義の結社を作つていただけだが、ひるがへつて現在の我が国はどうだらうか。 目に見えない尊いもの、は現代の教育や出版・マスコミの攻撃に蹂躙され、不当に貶められてゐる。 曰く、非科学的、カルト宗教的、インチキの類と。なんと呆れる話ではないか。カルト宗教と云ふのであれば創価学会公明党と邪教団体と邪教政党が日本国内に監視網をしひてゐる末期的な状態と云ふのに。
しかし、愚生が実見したはけではないが言霊への最大級攻撃機関、電通は伏見稲荷神社に奉納された鳥居の一番目であることを忘れてはならない。 日本どころか世界を蹂躙してゐるユダヤ資本の連中も、悪魔崇拝に近いとは云ふもののユダヤ教を信仰してゐる。
当然ではあるがイスラエルも熱烈なユダヤ教信仰の国であることも忘れてはならない。
結局、本当に知つてゐるものは皇道から外れまいとする者でも、外道の所行であらうとも、信仰がいかに大事か痛感してゐるのである。
神秘主義の矮小化は皇道であつても事情は同様である。
前述の教育と出版・マスコミの刷り込みによつてネトウヨなどと云ふ珍妙なレッテルを貼られ奇矯な人種にに思はれてゐることもある始末である。 我々自らが皇道に背かない、それはおそらく見えないだけにとても簡単なときもあれば難事であることもあるだらう
が、兎に角中心には尊皇敬神、皇道を意識して生きていくことしかないのであり、皇化への最短距離はここに於てしかありえない。
そしてその基盤は最深部では静謐でなおかつ力の源泉として真の混沌であるところの、言霊、音霊が充溢した世界である。 言語と音響的な側面からの攻撃と汚染を絶対に許してはならない。