復刊六号(平成二十六年十月一日)より
大橋敬之助(立石孫一郎)兵庫縣佐用郡上月村で代々土地の大庄屋を務める大谷五左衞門義孝の長男として天保三年(西暦一八三一)一月に生まれた。大谷恵吉と呼ばれてゐた。十七歳のとき家督を繼ぎ庄屋見習ひとなりましたが、役人と衝突して母方の叔父(立石正介)美作國二宮村(津山市二宮)がゐる津山の立石家に轉居し立石姓を名乘つた。十八才のとき岡山縣倉敷市の豪商で町年寄を務める大橋平右衞門正直の娘慶と結婚し、同家の分家養子(西大橋家)となり大橋敬之助と名乘つた。この大橋家(本家)であるが倉敷の觀光名所美觀地區よりすぐそば國指定重要文化財大橋家住宅として現在も殘つてゐる。
大橋家の歴史
大橋家の先祖は豐臣氏に仕へた武士でした。西暦一六一五年大阪落城の後、京都五條大橋邊りに隱れ住んだようで、幕府の追及を逃れるため大橋を稱するやうになつたと言はれてゐます。このころから數へると四〇〇年餘りの歴史がある家柄となります。江戸時代の初め(元和~寛永)に備中中島村(現倉敷市中島)に移り住み、その後の寶永二年(西暦一七〇五)にこの倉敷に住むやうになりました。代々中島屋平右衞門(中島屋大橋家)と稱し、水田・鹽田を開發して大地主となり、かたわら金融業を營み大きな財をなしていきました。天保の饑饉(概ね西暦一八三三~西暦一八三六江戸四大饑饉の一つ)には金千兩を獻じて名字を名乘る事を許され、加へて讃岐(現在の香川縣)の直島に鹽田十二町七反餘りを開いてその功で、帶刀をも許され、江戸時代の末期 文久元年(西暦一八六一)には倉敷村の庄屋をつとめました。
元治元年十二月十八日、敬之助三十三歳のとき、倉敷で下津井屋事件が起こる。
倉敷下津井屋事件(元治元年・西暦一八六四十二月十八日夜)備中倉敷の新祿派に屬する豪商「下津井屋」に、覆面をした一團が侵入し、頭主の吉左衞門父子を切殺して屋敷に放火される事件が起こつた。やがて、この兇行は、古祿派の大橋敬之助の仕業ではないかとの噂が流れた。ここで云ふ「祿派」とは、倉敷の街における商人の派閥で、古祿派とは舊家の門閥特權家などで十三家、對して新祿派は、元祿時代から港への移住新興勢力二十家があり、兩派が倉敷港における覇權爭ひを展開してゐた。この爭ひは「新祿古祿騒動」等とも云はれてゐる。この事件は倉敷村の覇權爭ひの中から敬之助が下津井屋から嫌がらせを受け、さらに敬之助が天誅組の戰跡を視察してゐると密告され、身の危險を感じた敬之助は妻と三人の子供を殘して出奔(十二月十七日)、倉敷から姿を消した。倉敷の町から出て、數日後に起きた浪士一團による事件である。その被疑者と疑はれた敬之助は大阪に逃げましたが、ここでも新撰組に追はれ、津山の叔父宅に戻り、津山二宮の立石家に傳はる毛利家感状と刀(一尺六寸五分)それから、森田節齋を倉敷に迎へた一人でもある倉敷本町藥種商林孚一源助の長州への紹介状を持參し長州に逃れ立石孫一郎と變名しました。
林孚一源助(倉敷大坂屋)文化八(西暦一八一一)年、備前國兒島郡木目村において石井傳藏(三男)として生まれ、幼くして父を亡くしたため、親戚に育てられた後、十九歳で林源助の養子となつた。林家は代々續いた藥舖であつたが、當時赤貧の状態にあり努力して家聲を興した。天保八年、凶作に加へ惡疫が流行した際は、私財を投じて人々を救濟した。嘉永六年に尊皇攘夷の説が起ると勤皇論を唱へ、天下の志士を助け、その實現のために奔走した。
慶応元年(西暦一八六五)二月には、周防東部の諸隊を糾合して白井小助を總督にした南奇兵隊(第二奇兵隊の前身)が結成されました。その隊に、立石孫一郎は加はり、彼は隊尾兼応接方を就任させられます。ちなみにこの時の軍監は世良修藏でした。ところが、翌慶応二年(一八六六)四月五日、隊の重鎭が去り不滿もくすぶつてゐたその隙に孫一郎は隊の書記・楢嵜剛十郎を殺害し、隊員約一〇〇人ほどを引きつれて脱營したのです。孫一郎は、隊員に「我に一策あり。このまま倉敷に舉兵して功をなさんとす」と説き。賛同を求めて船で東に向かひました。
四月十日未明、倉敷代官所(倉敷代官所は、江戸幕府直轄の代官所)を襲撃して攻め落とし火を掛けるわけです。
更に四月十二日には、倉敷の北方に當る總社の蒔田氏淺尾藩の陣屋を襲ひました。この淺尾藩は、元治元年(西暦一八六四年)、禁門の變(蛤御門の變)で會津藩とともに御門直近の警護をしてゐた藩、長州を討つた敵方にあたる。 しかし、その後は諸藩からの大軍に追ひ詰められて離散し、隊士の殆どは長州に歸還するありさまとなりました。孫一郎も下津井から船で四月二十四日に、熊毛郡淺江に到着しますが、隊士の助命歎願工作中に潛伏先で四月二十六日殺害され、脱走隊士の多くが藩政府により捕縛、處刑された。楢嵜を殺した上の脱營ですから罪は免れません。お墓は、光市の島田川の橋のたもとにあります。 大橋敬之助(立石孫一郎)の下津井屋事件(容疑)倉敷代官所襲撃、淺尾陣屋襲撃は、天誅組舉兵や尊皇攘夷論の當代隨一の論客、森田節齋の門下であつたことに起因するのではないか。吉田松陰の師でもある森田節齋は文久元年林孚一ら有力者に請はれて倉敷で開塾(文久元年三月十日・西暦一八六一~元治二年・西暦一八六五)三月閉塾)門弟は三百人にも及んだと傳へられてゐる。早すぎた、もしくは動かざるを得なかつたその尊攘、倒幕の行動は後の維新を見ることはなかつた。林孚一翁、昨年、跡地が改修され林源十郎商店となり多くのテナントが入り新たな觀光名所となつてゐる。大橋家住宅もしかり。ここに倉敷尊攘派の歴史が語られることはない。我我尊皇派が火を消すことなく語り繼いでいかなければならない。
ただ慶長七年十月十八日(西暦一六〇二年十二月一日)、秀秋は無嗣子で沒したため小早川家は廢絶となつた。