二百年の時を経て行われる御譲位をめぐって
文化十四年(一八一七)三月二十二日 光格天皇は 皇太子 恵仁親王(仁孝天皇)に御譲位の宣命を下され、御位をお譲りになられた。これにより、践祚あそばされた 仁孝天皇は同年九月二十一日に即位式を執行、翌年の文化十五年四月二十二日には、元号を「文政」に改められている。
これが、現在のわが国の歴史における直近の御譲位と践祚・即位、それにともなう改元である。
しかし、現在の法制下において、践祚という言葉は使われていない。 天皇の御位を継がれるという意であるが、まずここでは即位との違いを明らかにする必要があるだろう。
明治の「皇室典範」では、
第十絛 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
という条文が存する。
これはすなわち 皇嗣には手続きや、神器手渡しなどという現象的なことではなく、霊的に 天皇の御位と神器が遷られることだと考えていいだろう。「剣璽渡御」と言われた証左である。
この場合は 先帝の崩御による践祚の条文であるが、典範など規定のなかった、光格天皇の御譲位は「宣命」(天皇の詔りごと)というものによって 仁孝天皇にその御位が遷ることになった。
これが現行の「皇室典範」では、
第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
となって、践祚や神器についての記載が削除されている。しかし「皇室経済法」には、
第四条 皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣が、これを受ける。
とされていることから、これはそのまま由緒ある物を剣璽・神器と読みかえていいだろう。
その「剣璽渡御」は、現代では国事行為として「剣璽等承継の儀」という形ある儀式にされている。
それはこの渡御という霊性を「政教問題」とさせないために、剣璽のほかに「天皇印」や「国印」を追加して、宗教性を排除しているのである。これは現代でもまだ、神器は霊的に 新帝に遷るという観念が潜在的に生きている所以でもあるのだろう。ゆえに、践祚という言葉は、現代の合理的解釈では、またよその国からの受け売りの「政教分離」の観点からは使用することを忌避せざるを得ないものになっているのだろう。
では、明治以前の時代まではどうか。
律令下における「神祇令」(令義解)にあたると、そこには、
「凡そ践祚の日に、〔謂ふ、天皇の御位につきたまふ、之を践祚と謂ふ。祚は位なり〕中臣は天津神の寿詞を奏せ。忌部は神璽之鏡剣を上れ」
とあり、続いて大嘗祭と新嘗祭の区別などに触れられていく。
まさに践祚とは、中臣・忌部による 天皇の御位に対する祭祀となるのである。
それが明治になり、さきに触れたように「皇室典範」(二十二年二月十一日)が制定されると、その第二章に「践祚即位」が明記され、
第十絛 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
第十一絛 即位ノ禮及大嘗祭ハ京都ニ於イテ行フ
第十二絛 践祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
となり、践祚と即位は別のものであることがあきらかになるのである。
ここでは、践祚を霊的な皇位の継承であり、即位はそれを内外に知らしめることとしているのである。そしてこの法制によって、
皇位の継承のひとつのかたちであった譲位は廃された。また建てられた元号は、一世の間に改めざることという、元号の一世一元が決定されたのである。
即位関連儀式を定めた「登極令」(明治四十二年皇室令第一号)には、
第一条 天皇践祚ノ時ハ即チ掌典長ヲシテ賢所ニ祭典ヲ行ハシメ且践祚ノ旨ヲ皇霊殿神殿ニ奉告セシム
第二条 天皇践祚ノ後ハ直ニ元号ヲ改ム
元号ハ枢密院顧問ニ諮詢シタル後之ヲ勅定ス
第三条 元号ハ詔書ヲ以テ之ヲ交付ス
と践祚後の元号勅定のことが定められている。
勅定とは 天皇御自らがお決めになるということ。すなわち元号とは 天皇がお決めになるものなのである。
第一条にいわれる賢所での祭典は、現在も、即位礼正殿の儀(国事行為)が行われている同時刻に、掌典によって賢所で行われているという。
これが、敗戦後の「皇室典範」(昭和二十二年)にかわると、
第四条【即位】 天皇が崩じたときは、皇嗣が直ちに即位する。
となって、明治のものと共通するのは、皇位継承の大前提が 先帝の崩御を原則とするということだけとなり、この典範から「元号」の規定が無くなっている。
また、昭和二十三年の「日本国憲法」(現行憲法)の施行、そして「皇室典範」によって、先に述べた登極令や、皇室祭祀令は廃止されたことになる。それでも、宮内府官房文書課長の通達によれば、
「いずれはあらたに法整備をする考えのもとに、法的根拠のないもの(ここでは、元号の勅定など)は、従前の例に準じて処理すること」
という依命通牒、通達によって、関係法令を踏襲する方針が出されている。これによって、占領下はもとより、講和以降も宮中祭祀は守られたのである。
しかし、昭和五十年九月一日には、この『宮内庁関係法令集』からその従前の例としてきた「登極令」や「皇室祭祀令」などが削除されている。
これによって、一例ではあるが、昭和五十年八月三十一日までは、宮中三殿での毎朝御代拝は、侍従が浄衣、烏帽子、笏、馬車にて参内し行われていたものが、この昭和五十年九月一日から、モーニング、車で参内し、三殿の階段下から一礼するのみに御代拝のかたちが変更されたのである。
国家公務員の「政教分離」がその建て前のようだが、この時の宮内庁の顔ぶれを見ると、宇佐見毅長官、「富田メモ」で悪名が知れた富田朝彦次長、そしてクリスチャンの入江相政侍従長である。なにかの悪意を感じるのは筆者だけではないだろう。富田はこの三年後に、宮内庁長官に就任している。
『宮内庁関係法令集』において依命通牒とされた様々な法令が削除されたことで、祭祀の簡略化が図られたのは紛れもない事実である。
しかし、連綿と続く皇室祭祀、そして皇位継承がその伝統に則ることなく、悠久の歴史をいま一時の政治と、その思惑のなかで軽視し、簡単に変えてしまって良いはずがない。
姑息な政治手段ではなく報本反始の理念に立ち返る
先日、神社本庁元職員の方から「報本反始」という言葉を教えて頂いた。本に報いて始めに反(かえ)るという意であるが、「神社本庁憲章」(昭和五十六年制定)には
第六条 祭祀は、報本反始の誠を捧げ、古来の伝統と、別に定める規則に従って厳修する。
とあるという。
神社本庁の現在の体制を批判するために引用したわけではないが、政権と密接な関係にありながら、単なる御用機関として、譲位を巡る問題についても報本反始に基づく強い意志を示していないのではないかと感じている。
平成二十八年八月八日「象徴としてのお務めについて」との
天皇陛下のおことばを拝し、政府は、御譲位に向けた法整備を行ってきた。しかしこれは「譲位」という言葉を勝手に読みかえ、「退位」という、我が国の皇室の歴史にない文言を持ち出し、「憲法」や「皇室典範」の条文をなにひとつ変えることなく「特例法」として、一代限りを条件とするものを作り上げたのである。
たしかに、御譲位による皇位の継承は先に述べたとおり二百年間なかったことであり、また明治以降は「憲法」そして「皇室典範」においても、その規定がなかったことは事実である。しかし、大本を改めず、時の政府の判断でいかようにも出来る「特例法」とは、次代に対する負の先例になりかねない危険をはらむものではないだろうか。これを「政教問題」に対する配慮のと見方も出来るが、このことによって政府は、我が国の大本である御皇室・皇位継承のあり方を、いとも簡単に変えることが出来るというシステムを完成させたのである。
そして今般、政治日程によって御譲位 新帝御即位の日が決定されているとはいえ 新帝が即位される前に次の御代の元号が公表されようとしているのである。(四月一日予定)
はたして「行政や経済への混乱を最小限にとどめる」というだけの瑣末な理由で、歴史に例を見ないこのような暴挙を許してよいのだろうか。
たしかに、現在の「元号法」において新元号を 天皇陛下が勅定されることにはなっていない。そして、元号を勅定と定めた「登極令」をはじめとして、依命通牒として辛うじて残されていた関係法令も、宮中祭祀を破壊しようとする勢力の目論見のもとに、いつの間にか消されてしまっているのは事実である。
それでも「元号法」(昭和五十四年施行)では、
① 元号は、政令で定める。
② 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
とされているのである。
一見すればそれは、政府によって「元号」を定めることが可能であるかのようにも読みとれる。しかし、政令にはかならず 天皇陛下の御名御璽を賜るのである。これにならえば、新しい御代の「元号」とはすなわち、五月一日の新帝御即位の日に、新帝から御名御璽を賜るものが政令として発せられなければならないはずである。
かりにこれが政令ではなく、ただ政府の閣議決定のみで事前公表が行われれるとすれば、これは「政府の元号」ということになってしまうのである。一部では「先に 今上陛下と皇太子殿下のご承認を得て」という流れも報じられてはいるが、これは明らかに、君臣の分をわきまえぬ政権の、その優位性を示そうとする 天皇の政治利用にほかならない。
はたしてそれらが、日本の伝統に照らし、また国民から愛され、親しまれる「元号」になり得るのだろうか。これは皇位継承と密接にある元号を蔑ろにする以外のなにものでもない。
また、『不二』(不二歌道会・平成三十年八月號)誌における福永武氏の指摘によれば、
「嘗て平成の元号制定に携はつた元内閣内政審議室長の的場順三氏は、『元号の発案者であつても、皇位継承時に亡くなつてゐる人の案は使へない』と証言してゐる」
ということを明らかにされている。
平成三十一年四月一日に政府の案を公表し、もし五月一日の御即位の日までに、指摘のような不測の事態があった場合、政府はその責をどうとれるというのだろうか。
新元号の事前公表とは、なにひとつ理に適うことのない暴挙なのである。
光格天皇の例にならえば、践祚・即位から改元までのあいだには、一年一ヶ月の月日を要されている。
これを一世一元の制に反するという意見もあるだろう。しかし、過去にはこのような「踰日改元」「踰月改元」はいくらでもあったのである。そして現在は政令で定める「改元」である。政令であるがゆえに、その施行日などは、それこそ政治でいくらでも差配出来ることなのではないだろうか。
本に報い始めに反る。幸い、私たちには立ち返るべき尊い歴史と伝統がある。世界で唯一「元号」を使用する国とは、連綿とつづく 天皇とその元号を戴く祖国日本なのである。