日本語音律への攻撃 生田信乃

復刊四号(平成二十六年四月一日)より

もう一つの国体破壊攻撃について

「パイロット」、「番号」、「二等」──これらの語は全て昨年大晦日、紅白歌合戦前のNHKニュースで流れた語ですが、共通点が御分かりになるでせうか。
回答を申し上げればどれも間違つた発音でした。*パ*イロット、*バ*ンゴウ、*ニ*トウ、──所謂、単純に語頭にアクセントのつく【平坦化(平板化)アクセント】だつた訳です。
近代以降の日本文化は欧米の中途半端な真似に終始し、却つて欧米の著作家が鋭い日本的な思索に到達して居りますが、ここでルーマニアのエミール・シオランの箴言を引用ゐたします。シオランが強い不眠と鬱の果てに書きつけた「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語である」、この警句は何よりも今、現代の日本人が再考せねばならない喫緊の課題です。
確かに*ニ*ガツ、*シ*ガツ、等、方言や地域的に標準語としての日本語からの逸脱はあります。また言葉は生き物──それも時として怪物の様な──ですから完全に固定された【標準】は存在しません。仮に固定されたらその言語体系の死でありませう。
俗語として平坦化アクセントが使はれる場合は多く、筆者もまたインターネットは*ネ*ット、(女性の恋人の男性の意味での)「彼氏」は*カ*レシ、単車の事は*バ*イクと呼んでゐます(単車は普通に単車もしくはオートバイと呼ぶ事が多くなりましたが)。 かうした仲間同士の符牒の様に使はれる平坦化アクセント、または地域的な発音の違ひ、かうしたものは人によつては眉をひそめる程度で特に大きな問題とは考へません。日本語、日本文明の柔軟さ、受容度の高さと云ふのはこの程度ではビクともしないでせう。
この柔軟性の強さに就いては九条の会、家庭内暴力、動物虐待の三拍子で悪名高い井上ひさし氏が面白いことを書いてゐます(彼の日本語論には敵乍ら見るべきものが有ります)しかし、井上は日本語の柔軟さに就いて「国語の崩潰が叫ばれるが外国語が単純に日本語文脈に収まつた程度では崩潰などしない。むしろ動詞の「ラヴ」が日本語の口語文脈の中で「ラヴる」の様になると危険だ」と云つたことを書いてゐる訳です。
ですが、実際には小学校高学年から使ふとしても高校生ぐらゐまで、一部の女児~女子には「アピールする」を「アピる」と云ふ変形した上での動詞化が行はれてゐたりするのです。つまり井上の日本語観はまだまだ甘かつた訳ですね。──この「アピる」が日本語として乱れてゐるいないはひとまず措きます。
問題はここ数年の間に平坦化アクセントが異常に浸透してしまつてゐることです。テレビやラジオ、役所等の公共機関、病院、二月が*ニ*ガツ、四月が*シ*ガツは当然と云ふ位の印象です。
言語学的には、斯様な平坦化アクセントは、【発音への省エネルギー化(実際に発声する時も語を習得する時も)】や【符牒、仲間意識、特定の共同体意識】が指摘されてゐます。どちらも理由として零では無いでせう。
在日朝鮮人、移民政策、あるいはかつて社会主義活動や学生運動に携はつた者が現在マスコミ、大手広告代理店や公共機関などへ……が理由かとも思つてゐました。また先程書いた符牒性で云へば所謂左翼学生などが独自のアクセントを使つてゐた事実も有ります。
余談ながら、民主党の元・仙谷由人官房長官は国会答弁中、「新潟」を*ニイ*ガタ(ニにアクセントを置きイを更に上げたアクセントと云ふかなり異常な発音です)と発音して済まし顔でした。この原稿を書いてゐる今日は、共産党の志位和夫書記長が「対決する」を*タ*イケツスル、とお里の知れる抑揚で演説をぶつ為体です。
日本語のアクセントは複雑ですから、それを敢へて教育の低い層や移民に教へる際には【日本語の発音は語頭にアクセントがくる=平坦化アクセント】として教へてしまえば簡略化日本語とでも云ふべき空恐ろしい代物が出来上がります。
ですが、果たしてそれだけで済むか。
言霊が穢れます。そしてそれは亡国そのものです。
八百万の神と申しますが、全てが神々として目に見える世界はおろか目に見えない世界、無意識、更には個の無意識が繋がつてゐる集合的無意識の世界、万物同根、在るもの在つたものこれから在るもの、全てが言葉、言霊です。霊性を帯びた言葉がどこまでも、始原から未来まで満たしてゐるのです。

端正な日本語で健筆を振るつた徳富蘇峰翁

端正な日本語で健筆を振るつた徳富蘇峰翁

皇道に則り、汚い言葉遣ひは慎むべきです。が、若しマスコミや公共機関等が日本語の破壊を画策してゐたらどうなりませう。しかも発音と云ふ側面を見事に狙つた日本語への容赦無い攻撃です。 個人や集団、或いは日本国民の品格が失せる、これだけでも一大事ですが、言葉、つまり日本語を壊しさへすれば国体の崩潰はあつけないものです。云へ、日本語の崩潰と国体の崩潰は同時、同義でありませう。
筆者の友人でも、保守、愛国を自認して居ながら【韓流】をハンリュウと呼称してゐた者がゐます。マスコミや大手広告代理店の刷り込みと云ふのはそこまで恐ろしいものなのです。単純に言葉の乱れ、言葉は生き物だから、ではありません。
徒に悪しき言葉遣ひをする理由もありませんが、文化とは文化財的なものから下劣とも云ふべき分野まで包括されます。その意味でのみ自然発生的な日本語の乱れ、あるいは誤用がそのまま正式な日本語として認められることもあるのです。
先の「アピる」等は言葉遊びとしても筆者としては面白く思へます。仲間同士のくだけた会話だけで使ふもの、と心得てゐれば何の問題も無い。 陰謀論めいて聞こえるのは承知で書きます。 薄汚いアクセントを流布させてゐる連中、勢力の活動は疑ひありません。 この問題とは違ひますが駅の表示にも日本語、ローマ字表記だけでなく支那語やハングルが使はれてしまう時代です。
さうではなくても仮にも国から依託され放送をしてゐる局のアナウンサーがいぎたない発音の日本語を垂れ流し、多大な汚染を齎してゐる事が問題なのです。
日本語は文字通り日本国そのものです。我々が誤つた発音を刷り込まれて発声をすれば、それは思考も情動も無意識に悪影響を受け、謂はば調律の狂つたピアノに成つてしまいます。
この演奏がただの雑音で済めばよいのですがさうはいきません。
この調律の狂つた──狂はされた──ピアノ=我々の脳、神経、唇、喉の狂ひと汚染は美しい演奏ができないどころか、過去の偉大な楽曲、雄々しく時に哀感たつぷりな楽譜=発語指示を無視すると云ふ無礼を弾いてしまうのです。
さう、実際に発語されたをかしなアクセントの言葉は八百万の神々に対しこれ以上ない不敬と考へます。
音声言語は消去可能な書記言語とは違ひ、取り返しのつかないものです。 どなたもこの取り返しのつかなさには心から同感されるものと信じます。 自戒しつつも神社の鈴の音が元の清らかさを祓ひ浄めて下さることに感謝し、【平坦化アクセント】による国体への苛烈な攻撃、我々を現在包囲してゐる日本語音律攻撃への警告を締め括らせて戴きます。