山縣大貳先生が産まれたのは、享保十年(紀元二三八五年)甲斐国巨摩郡北山筋篠原村(現在の山梨県甲斐市篠原)で、今年で生誕二百八十九年です。
明和四年、いわゆる明和の変に連座し、徳川幕府に大政奉還を唱えた先駆者であるが為に、捕らわれの身となり八月二十四日に斬首の刑にされました。享年四十三歳でした。その時、門下生であった園部文之進は、同志三名と相謀り山縣大貳先生の御首を根小屋生家に持ち帰り、埋葬しました。
その後、山縣大貳先生の遺稿である「柳子新論」は、多くの勤皇の志士達に奮起の志を与えました。かの吉田松蔭先生もその一人です。それは、宇都宮黙先生が柳子新論の重要性を獄中の松蔭先生に唱えたからと言われています。その結果、王政復古を強く唱える様になりました。これが明治維新の原動力になったのは、言うまでもありません。
そして勤王の志士達の魂は、明治の御世になり甦りました。明治十一年 明治天皇は山梨県行幸啓遊ばされた際に、国学者で甲斐浅間神社の宮司である八代駒雄を御召されました。この時、山縣大貳先生の事績資料を持参し、山縣大貳先生が王政復古の先駆者であった事を奏上致しました。
明治十三年六月二十一日(一三四年前) 明治天皇は甲斐龍王町の小宮山貞影宅にて御小休息の時に、八代駒雄が奏上した金剛寺の山縣大貳先生の史跡を侍従である北条氏恭に見聞させた。更に小宮山に山縣大貳先生の詳しい奏上を受け給い、勅旨を遣わし、太政官である三条実美の名をもって、県令藤村紫郎に祭祀料金二十円(現在の値にして約四、5千万円)を下賜された。また明治二十四年(紀元二五五一年)に正四位が追贈された。この様に山縣大貳先生の名誉が回復され、園部家敷地内から園部家菩提寺の曹洞宗零石山泰寧寺に葬られ祀られています。戒名は「卓榮良雄居士」と刻まれています。尚、東京都新宿区四谷にある全勝寺にも祀られています。また生まれ故の山梨県には、山縣神社が建立されており毎年九月二十三日には、大貳学問祭が開催されています。
偉大なる事業を成した、山縣大貳先生は、今年で御霊二九〇年に当たります。日々各方面で 尊皇運動を展開されている同志・諸兄におかれましては、御霊二九〇年「柳魂祭」の呼び掛け人として御氏名を頂きたく存じます。また、有志の方々に於かれましても、当日の御参列頂きたく御案内申し上げます。
記
山縣大貳先生 御霊二九〇年 柳魂祭
日時・平成二十六年九月二十二日(月曜日)十三時より
場所・曹洞宗零石山泰寧寺 茨城県石岡市根小屋七七九
電話〇二九九・四三・〇六八二
連絡先
〒一六〇~〇〇二一
東京都新宿区歌舞伎町二~二~六~六〇一
山縣大貳先生顕彰會・貴田誠
(電話)〇八〇・一二五七・九六二三