年頭にあたり先づ以て皇室の彌榮と御繁榮を心よりお祈り申し上げます。
慌ただしい年末が過ぎ、毎年あたり前のやうに大晦日を過ごし新年を迎へてゐますが、このあたり前に過ごせる毎日に、天皇の祈り、宮中祭祀が行はれてゐることを忘れてはならない。その中でも今囘は年末、年始に行はれる祭祀について著書、天皇の「まつりごと」を參照に紹介したい。 六月と十二月の晦日に行はれる節折(よおり)の儀、大祓の儀、元旦は四方拜、歳旦祭と祭祀が續きます。
天皇のための節折の儀 まづ節折とは、天皇のために行はれる祓の儀式である。平安以前の史料にみえないが、貞觀末年(西暦八七六)ころ成立の「儀式」に六月末と十二月末の「御贖(みあが)の儀」として節折に相當することが出てゐる。また村上天皇の「清涼抄」逸文には、すでに「応和二年(西暦九六二)六月、節折、例の如し」と記されてをり、その前後に編纂された源高明(村上天皇の異母兄)の「西宮記」六月「御贖物の事」に、當時の作法が詳しく書かれてゐる。つまりこれは平安初期から神祇官で執り行はれてきた御贖祭に由來する。御贖とは、ツミ・ケガレを移すために祓に用ゐられる代償で、さまざまなものがある。現に行はれてゐる節折の儀は六月三十日と十二月三十一日の午後二時から三時まで、宮殿正殿「竹の間」において營まれる。まづ 天皇が御小直衣に金巾子の御冠を被つて出御されると、掌典長が一拜する。ついで侍從が掌典から御贖物の御服を受け取る。その呂の蓋を開けて差し出すと、それに陛下が口氣を三度吹き入れられ、それを侍從から掌典に渡される。つぎに侍從が掌典長から御麻を受け取る。それを差し上げると、陛下がその御麻で御體を三度お撫でになり、それを侍從から掌典長に渡される。さらに侍從が、掌典から御竹九本を受け取る。そのうち、初めの長い一本で、陛下の御背丈を測り、竹に筆で墨の印をつける。それを掌典から掌典補へと下げ送ると、掌典補が墨印のところでピシッと折る。同樣に次の二本で御胸から指先まで、次の二本で左右の御膝から足元まで、順々に測つて竹に墨印をつける。するとそれらを下げ渡された掌典補がそれぞれ印の所でパシッと竹を折り、櫃に納める。そのあと侍從が、掌典から御壺を受け取る。それに 陛下が口氣を三度吹き入れられ、それを侍從から掌典に渡される。このやうな一連の儀式が、二度繰り返して行はれる。初度を荒世の儀、再度を和世の儀と云ふが、御身の長さに御竹の節を折るところから節折と總稱する。その内容はまつたく變はりはないが、初度の御服に白絹の荒妙を用ゐるので、荒世、再度の御服に紅絹の和妙を用ゐるので和世と云ふ。また前者が荒御魂の御身(荒世)後者が和御魂の御身(和世)を祓ひ清めることになる、と解されてゐる。一年の前半末日と後半末日に御服・御麻および御竹・御壺を御贖物に用ゐて、いとも叮嚀な祓ひの儀が行はれてゐる。それら御贖物のうち御麻は、續いて行はれる大祓の祓所へ掌典補の手で運ばれる。
萬民のための大祓の儀
大祓の儀は、神嘉殿の南庭で行はれるため、そこに白木の案(机)四脚を竝べる。そして第一案の上に大麻、第二案の上に皇族方の御贖物(白絹と紅絹の二包)第三案の上に諸員の贖物(白布と白絹の二包)第四案の上に御麻(天皇の節折に用ゐた荒世・和世の榊二本)を置く。やがて午後三時、通常禮裝の皇族および宮内廳と皇居警察本部の職員などが着牀すると開始される。まづ掌典補二人が第四案の御麻(天皇の御身を撫で祓つた榊二本)に稻穗を差し挾み祓ふ。ついで掌典長の命を受けた掌典が賢所に一拜してから、大祓の詞を讀みあげる。さらに他の掌典が第一案の大麻で參列した 皇族と諸員を祓ふ。ついで掌典補は、その大麻を下げ
渡され、大祓ひの詞を讀んだ掌典から、贖物を大河へ流し棄てるやう命じられる。他の掌典補四人も、第四案の荒世の御麻と和世の御麻および第二案の皇族方の御贖物と第三案の參列諸員の贖物を執り持ち退く。これらの贖物は節折の御竹などと一緒にして流し棄てることになつてゐる。それは明治以來、皇居から濱離宮まで運ばれ、そこから船に乘せ沖で海へ放ちやられることになつてゐた。しかし、戰後は段々難しくなり、近年は皇居内の然るべき所に流し埋められてゐるやうである。ちなみに、このやうな大祓は古くから行はれてきた。すでに「日本書紀」天武天皇十年(西暦六八二)紀に「天下をして悉く大解除せしむ」とみえ、大寶、養老の「神祇令」に「六月と十二月の晦日、大祓。
百官の男女を祓所(宮城入口の朱雀門前)に聚め集へて、中臣が祓詞を宣り、ト部が解除せよ」と制度化されてゐる。きはめて大々的な天下萬民のために爲される祓の儀であつたことがわかる。これも応仁の亂後廢絶してゐたものが、明治四年(西暦一八七一)に再興され今に至つてゐる。
神嘉殿南庭の元旦四方拜
まづ元旦の四方拜は、平安初期から清涼殿の東庭で行はれてきたが、明治以降、いはゆる宮中三殿の西側に建つ神嘉殿の南庭でおこなはれてゐる。午前四時ころ、まだ眞暗闇であるが、民間の特別な勤勞奉仕團の人々が焚く庭燎(庭で焚く火)の薄明かりを頼りに、掌典職の若い職員たちが準備を始める。
すなはち、南庭の階段に近い四間四方の簡素な吹き拔け假屋の中で、白砂の地面に荒薦(あらこも)・白布と眞薦・蘭薦を重ねて敷き、その上に御坐(拜坐)の厚疉(三尺四方)を置き、拜坐の前面に左右二基の菊燈を點す。その周圍に二雙の屏風を廻らし、西南の方位(伊勢神宮の方向)を少しあけておく。東京でも元旦未明の殿庭あたりは、霜が降りて凍るほど寒いと云ふ。そのころ 天皇は、吹上の御所で潔齋(沐浴)してモーニングコートを召され、皇后に見送られて、自動車で宮中三殿の奧(北)にある綾綺殿へ移られる。この更衣所で當日の儀服の黄櫨染(かうろぜん)の御袍(ごほう)(黄褐色の生地に桐、竹、鳳凰、麒麟の紋を織り込んだ特製の束帶)を召され、立纓(ピンと立つた冠の飾り)の御冠を被り笏(しやく)を持たれる。
かうして身支度を整へられた天皇は、御手水のあと、脂燭(しそく)(松明)を持つ侍從と掌典長の先導により、廊下の續く神嘉殿の東から南を經て殿庭の假屋へ入られる。屏風の西側には掌典長、侍從長、と侍從、掌典、また東側には宮内廳長官、式部官長と侍從、掌典が竝んで着坐する。そして五時半、天皇は御坐に着かれ、まづ西南に向かつて伊勢の兩宮(皇大神宮と豐受大神宮)、つぎに天地四方の天神地祇、ついで皇宗神武天皇の御陵と先帝昭和天皇の御陵(東京都八王子市)さらに武藏國一宮の氷川神社、山城國一宮の賀茂上下兩社、応神天皇などを祀る石清水八幡宮、神器の草薙劍などを祀る熱田神宮、天孫降臨に隨從した 武神を祀る鹿島神宮(常陸國一宮)と香取神宮(下總國一宮)などを順々に遙拜される。
この元旦四方拜は、平安初期の嵯峨天皇朝(西暦八〇九~西暦八二三)に始まつたとみられ、中世、近世にも京都御所の清涼殿東庭で續けられてきた。
それが明治に入つて一變する。ただ元來この儀式には神饌も祝詞もなく皇族以下の參列もない。そのため、「皇室祭祀令」にも大祭、小祭と違つて、天皇が不都合な時は「四方拜は行はず」(他の皇族や掌典長、侍從が代行しない)と定められてゐる。
そこで、昭和天皇は戰時中でも、これを何とか續けようとされた。たとへば昭和二十年の元旦には年末から米軍機B29による空襲が繰り返され、吹上御所の御文庫(防空壕)にをられた天皇は、五時ころ軍服のまま綾綺殿へでかけようとされても、警戒警報が鳴り響き動けない。やむなく藤田尚徳侍從長(海軍大將)の判斷で、眞暗な御文庫南側の庭上に假の御坐を設けて、軍裝のまま四方拜を行はれたと云ふ。
宮中三殿の歳旦祭
元旦の四方拜に續く歳旦祭は、第一に賢所、第二に皇靈殿、第三に神殿の中で行はれる。その賢所と皇靈殿には、深夜一時から、正裝(小袖、袴、衣)の内掌典(祭祀に奉仕する女性の内廷職員)たちが、それぞれの内々陣で「・・・元旦につき、當年も相變はりませず、おめでとう年の初めに、三々九度の御盃 供せられます・・」との口上を申しながら、御酒を御盃についで御神前に供へ、たくさんの小さな金の御鈴を引き鳴らす。
ついで五時ころ、齋服姿の掌典(祭祀に奉仕する男性の内廷職員)たちが神饌と幣物を奉り、掌典長が祝詞を奏でる。やがて六時ころ、四方拜を終へられた 天皇が、神嘉殿から廊下を渡つて賢所へ入り、内陣に着坐される。そこで御玉串を執つて御拜禮になり、その御玉串を掌典 長が御神前におくと、内々陣にゐる掌典長が御鈴を鳴らす(これは賢所のみ)。その十分近い間、天皇は正坐のまま平伏してをられると云ふ。
かうして掌典長が祝詞を奏し、天皇が御拜禮になる歳旦祭(小祭)は、賢所に續いて皇靈殿と神殿でも、同樣に繰り返される。
天皇が神殿を退出されると、續いて皇太子が掌典長の先導で賢所・皇靈殿・神殿の順で内陣に參進して禮拜される。このやうな小祭には、皇太子のみで、他の 皇族は出られない。 大晦日から始まり、元旦より、多くの人が寢靜まる早朝四時ころより、凍えるやうな寒空の中、我ら國民のためにお祈り賜ふこの眞實を多くの國民が知らない。正月二日からも國内外の代表者や一般國民の祝賀行事が何囘も繰り返され、ついで三日には元始祭、四日には奏事始と多忙な正月を遊ばされる。インターネットが普及し何でも情報が入る時代になつてはゐるが、それは各々興味がある事の情報であつて、興味がなければ觸れる事もない。人心の荒廢した今、日本の足りない所はこの尤も大事な事に觸れる機會が少ない事ではないかと思ふ。多くの國民が知らない、
スメラミコトのまつりごとを知る機會を作るためには、どうすればいいか考へて行きたいと思ふ。