三月二十一日と言へば、所謂「春分の日」である。現代では國民の祝日として單なる休日と化し旅行や行樂へと勤しむ日になつてゐるのが現状である。戰前の我が國では祝祭日が定められてゐました。今日の春分・秋分の日にあたるのが春季・秋季皇靈祭、宮中祭祀との關係があり、宮中でまつりがあるから祝祭日と稱するのである。佛教的にはお彼岸會と言はれてゐるが、その初見は、平安初期の大同元年(西暦八〇六)二十年ほど前に皇太子の身分を廢され薨去された早良(サワラ)親王(崇道天皇と追尊)のために、桓武天皇の崩御(三月十七日)に際し、諸國の國分寺で春秋仲月(舊暦の二月と八月)別して七日、金剛般若經を讀ましむ(日本後紀)との記事である。しかし、すでに「日本書紀」には、前述のごとく神武天皇が「皇祖天神を祭りたまふ」とあり、また天武天皇十年(西暦六八二)五月十一日條に「皇祖の御魂を祭りたまふ」とみえる。
從つて、このやうな祖先祭祀の傳統が前提にあつたからこそ、やがて佛教的なお彼岸會も行はれるやうに至つたものと思はれる。中世・近世の宮廷では、御所の一角(清涼殿のお黒土)に歴代天皇の靈牌や念持佛を安置して、ご命日の法要など營まれてきた。それが明治維新の際、所謂神佛分離令により、從來の歴代靈牌は、東山の泉湧寺(せんにゆうじ)などへ遷された。明治二年(西暦一八六九)改めて神祇官で歴代天皇の御靈代を招き祭り、明治天皇の御拜禮がありました。明治十一年六月、「春秋二季祭」を置き、「神武天皇を御正席とし、先帝まで御歴代天皇、ならびに后妃以下皇親(皇族)」も「合祭」すると定められた。
この時、春秋二季の皇靈祭が、明治六年以來の國家的な「祭日」に附け加へられた。それによつて全國の神社などでも一齊に祭典が行はれるやうになり、さらに、明治四十一年公布の「皇室祭祀令」で春秋二季皇靈祭は「大祭」と定められ、祭典の中で東遊(あずまあそび)(樂師の歌舞)も奉奏されることになつた。この春分と秋分には、皇靈祭に續いて神殿祭が行はれます。その神殿には、日本國中の天神地祇が祀られてゐる。歴代天皇が古くから直接的な祖先神だけでなく、八百萬神々を崇敬してこられたことは多言を必要としないが、大寶・養老の「神祇令」に「天皇即位(踐祚せんそ)したまはば、惣て天神地祇を祀れ」と定められてゐる。また「延喜式」では、「宮中神」以下全國の「天神地祇」總計三千百三十二坐をあげ、そのすべてが毎年二月の祈年祭には神祇官か國司の國幣に與かるとされる。宮中祭祀は中世・近世に衰頽し廢絶したものもありますが、明治維新の際、積極的に復興された。明治二年、神祇官に神殿を設けて、中央の坐に宮中八神(神産日神~事代主神)、西の坐に歴代皇靈、東の坐に天地地祇を奉齊してゐる。ついで明治四年、その三坐で春秋二季の「祈念祭」が行はれることになり、翌明治五年、宮中八神と天神地祇を合祀して一坐とされた。明治十二年、春秋の御祈祭が春分と秋分に行ふ「神殿祭」と定められ、その十年後から、新築(現存)の宮中三殿の「神殿」において「天神地祇」が祀られるやうになつた。さらに、明治四十一年公布の「皇室祭祀令」により、春分と秋分の神殿祭は、皇靈祭と同じく大祭と定められました。
このやうに元來祝祭日が定められ、いづれの日も神まつりの日であり、各家庭では國旗を掲揚して、その意義が教へられ、その祝祭日に敬意を表したのであつたのではないか。單なる祝日に成り下がつた「國民の祝日」を元來の宮中祭祀=神道=皇民祝祭日復古を責務として考へる次第である。參考文獻 天皇の「まつりごと」