「山縣大貳先生顕彰會」行はれる

時:平成二十六年六月十三日 金曜日

場:山梨県甲斐市 ホテル神の湯温泉

※山縣神社 境内清掃奉仕後 昇殿参拝

【山縣神社】大正十年に山梨県社として創建され、市指定史跡「山県大弐の墓」や県指定文化財「山県大弐自筆著書並墨書」などの貴重な文化遺産が所在します。 山県大弐は江戸時代中ごろに活躍した儒学者で、医学や兵学なども修め、著書も多数残した大学者です。特に、政治、経済、身分等について書かれた「柳子新論」は有名です。 毎年九月二十三日には山県大弐の遺徳を偲ぶ「大弐学問祭」が開催され、神輿の渡御や学問成就祈願が行はれ市民交流の場となっています。

【山縣神社】大正十年に山梨県社として創建され、市指定史跡「山県大弐の墓」や県指定文化財「山県大弐自筆著書並墨書」などの貴重な文化遺産が所在します。
山県大弐は江戸時代中ごろに活躍した儒学者で、医学や兵学なども修め、著書も多数残した大学者です。特に、政治、経済、身分等について書かれた「柳子新論」は有名です。
毎年九月二十三日には山県大弐の遺徳を偲ぶ「大弐学問祭」が開催され、神輿の渡御や学問成就祈願が行はれ市民交流の場となっています。

山縣大貳が産まれたのは、
享保十年(紀元二千三百八十五年)で今年で生誕二百八十九年です。

山縣大貳は、儒学・兵学等を江戸日本橋の学舎で教えていました。上野小幡藩の藩主である織田信邦の家老・吉田玄蕃と深く親交がありました。藩政改革の時に、大貳の思想を活用し改革に意欲的に進める玄蕃に対して藩内の対立派により大貳や友人の右門が仮想江戸城攻防の兵学を論じた事から、それを聞いた藩主信邦の実父である織田信栄に告げられ、家老玄蕃は監禁されてしまいました。それを見た心無き門人たちが己の身に危険が及ぶ事を案じて、大貳らが謀反を企てていると幕府に密告したので、幕府は、山縣大貳、竹内式部、藤井右門ら多くを捕えて審問しました。その結果、謀反の事実は無いと分かりまましたが、大貳は兵学の講義で、甲府またその他の重要な地域を用いて攻略方法を解説していました。そして明和事件で捕われ、最後まで己が信念を貫き、王政復古を唱えたのです。また、江戸期に尊王論者で初めて斬首の刑に処され、幽明を境にしました。

今日は山縣大貳が深く影響を与えた人物を、何人か述べたいと思います。

まずは、明和事件に於いて連座し捕われた、藤井右門について話したいと思います。

藤井右門は、越中国射水(いみず)群小杉宿(現在の富山県氷見市)の富山湾に面している場所に、元赤穂浅野家江戸家老、藤井宗茂(通称・又左衛門)の長男として二百九十四年前の享保五年(紀元二千三百八十年)に産まれ、後に京都の藤井忠義の養子となって、名を直明と改めます。

藤井右門は、第百十二代 霊元天皇の第十三代皇女であらせられる、八十宮吉子内親王(やそのみやよしこないしんのう)の家司(けいし・一門の家事全体の補佐)として仕え、皇学所の教授も兼ねていました。

この皇学所は、平安時代末期の安元三年(紀元千八百三十七年)四月二十八日、第八十代 高倉天皇の御代に大火によって焼失し、事実上廃止されて以後、朝廷内に公式な皇学教育機関が存在しなかった。それを憂いた、第百二十代 仁孝天皇は、皇学所再建を目指して京都御所内に弘化四年(紀元二千五百七年・百四十六年前)に設置遊ばされました。藤井右門は教授となって、公家に尊皇論を説いていましたが、「宝暦事件」で処罰された、竹内式部と親交があったために宝暦八年(紀元二千四百十八年)名を「右門」と変えて逃避し、甲斐(山梨県)を経て江戸に出て、大貳の尊皇論に志を共にし、大貳宅へ寄宿しました。ところが、大貳が上野小幡(現在の甘楽郡甘楽町)の織田信邦(七代藩主)の御家騒動にからんで起きた明和事件(明和三年・紀元二千四百二十六年)に連座し捕えられ、獄中にて病死(明和四年・四十八歳)したため、江戸の鈴が森獄門場にさらされた。

山縣大貳は、寛政の三奇人と伝えられている。

また次の三人にも大きな影響を与えている。

蒲生君平(現在の栃木県宇都宮市・明和五年〈紀元二千四百二十八〉産まれ)。

蒲生君平は鹿沼の儒学者、鈴木石橋(すずきせっきょう)が二十九歳の時、「麗澤舎」(通称たくのや)に十五歳で学び、毎日三里(約十二キロ)を往復した。塾では「太平記」などを愛読し、楠正成、新田義貞らの 帝への忠勤に感動し、勤皇思想を学んで燃えて行った。北海道の松前や陸奥(現在の青森県むつ湾)へのロシア軍艦の出現を聞き、文化四年(紀元二千四百六十七年・二百七年前)に北辺防備を唱えた「不恤緯(ふじゅつい)」を著して幕閣に献上するが、幕府に警戒人物として喚問を受け世間と遮断されてしまいます。

また、天皇陵の荒廃を憂い復興を唱えた「山陵志(さんりょうし)」を享和元年(紀元二千四百六十一)に今で言うところの自費出版して、当時の勤皇思想高揚に大きな影響を与えた。また、その中で古墳の形状を「前方後円墳」と初めて用いた。それは今日でも用いられています。蒲生君平は文化十年六月に病に侵され四十六歳で幽明を境にされました。その功績は、明治二年(紀元二千五百二十九年)に 明治天皇に称えられ、勅旌碑(天皇の御言葉で創られた碑)が栃木県宇都宮市花房三丁目と東京都台東区谷中一にある龍興山・臨江寺に建立されました。さらに明治四年(紀元二千五百四十一年)正四位が贈位され宇都宮市に蒲生神社(大正十四年・紀元二千五百八十五年)が建立され、祭神として祀られています。

次に二人目の高山彦九郎(現在の群馬県太田市・延享(えんきょう)四年〈紀元二千四百七年〉五月八日産まれ)は、幼少より祖母・蓮沼せいから「太平記」を聞かされ、「尊皇」こそ御先祖への忠義であり孝行であると厳しく教えられました。その様な環境で育った彦九郎は、十八歳の時に自分の祖先が新田義貞の家臣であったことに感激し、志を立てて故郷を出て、京都三条大橋袂で宮城を遥拝し感極まり号泣したと伝えられています。また彦九郎はその時「草莽の臣・高山彦九郎」と名乗ります。彦九郎は地方から京都に出入る時には必ず三條大橋袂で宮城遥拝をしていました。

二年間、京都で多くの知識者に学んだ後、故郷に帰り六年間家業を手伝い、後に皇権復古・神道中興宣揚(しんとうちゅうこうせんよう)を求めて、各地に旅に出ましたが、自身の思惑通りに事が進まず悲観的になり、九州久留米の東櫛原村の森嘉膳(もりかぜん)宅を訪れた時には、心身ともに疲れ果てて、家人の隙をみて自刃しました。亡骸のそばに来た森嘉膳は次のように語りました。「余が日頃、忠と思い、義と思いし事、皆不忠不義の事となれり。今にして吾が智の足らざるを知る。天、吾をせめて斯の如く狂わせしむ。天下の人に宜しく告げよ」と述べ、懐中から取り出した一枚の紙に次の辞世がありました。「朽ちはてて 身は士となり墓なくも 心は国を守らんものを」

まさに息絶えんとする時、京都と故郷に向かって身を正し柏手を打ち念称し終えてから、自刃しました。寛政五年(紀元二千四百五十三年)六月二十八日、四十七歳の時です。

尊皇倒幕の実践的先駆者である真木和泉守保臣は、「新らしと人は言はねども春はただ古き神代に立ちかへるらむ」と哀悼の歌を捧げて拝んだ。

昭和三年(紀元二千五百八十八年)に有志が浄財を募り作られた銅像が今でも京都三条大橋東詰に皇居遥拝の銅像がある。ちなみに私が約三十年前、銅像を見た時に何故か目が輝いていたのは気のせいだろうか。

高山彦九郎は明治十一年(紀元二千五百三十八年)正四位を贈位されました。また群馬県新田郡大田村(当時)に高山神社が建立されました。

三人目は林子平(元文三年〈紀元二千三百八年〉江戸生まれの仙台育ち)。

子平は、仙台藩士として百五十石(現在の額で約三百七十五万円)の録を下されていました。しかし子平はみずからの教育政策や経済政策を進言しますが、藩に己の意見が通らない現実を受け、禄を返上して藩医である兄の所で部屋住み生活をし、北は北海道松前から南は九州長崎までを行脚して、多くの知識者と交流を通じて海外の国柄事情を研究していました。ロシアの南下政策に大変危機感を抱き、海防の重大さを唱えるために「海国兵談」(寛政三年・紀元二千四百五十一年)を仙台で発表しました。その内容は、日本国は地理的環境を四方の海に囲まれているので、海国であると捉えなければならないとし、外国勢力に備えて近代的な力を備えた海防軍の充実化と、全国的な沿岸砲台の建設が無ければ不可能であると説きました。

その後、実際に江戸湾の海防強化政策が幕府によって採用され、幕末海防論の原点となりました。余談ではありますが、嘉永六年(紀元二千五百十三年)、ペリー艦隊が幕府に開国を迫りました。これを脅威に感じた幕府は、湾岸防衛対策の一環として江戸湾に大砲台を建設する事にしました。それを命令された伊豆の国・韮山の代官である江川太郎左衛門は、早急に建設工事を間に合わせるには人手不足であり、これを解決する事を考えた末に、甲斐の博徒であり義理人情に篤い黒駒勝蔵の兄貴分である竹居安五郎(通称・吃安)に頼んで人足調達を行いました。この様に、甲州の人は元より各地の博徒が砲台建設工事に奉仕した事実があります。また海国兵談は、後の日本海軍の戦略家である佐藤鉄太郎(山形県鶴岡市出身)が活用して、大きな影響を及ぼし、日露戦争を勝利に導きました。

しかし当時、幕閣以外の者が幕政に口出しをするのは御法度であり、「三国通覧図説(さんこくつうらんずせつ)」と「海防兵談」の二冊とも発禁処分とされ、版木没収を受ける事となりました。しかし覚悟の勤皇烈士は志が違います。その後も自身で書き続け、写本原本を作り、それがさらに本を生むなどして後世に伝えられました。

最終的に、藩の意向により兄の元へ強制的に蟄居させられますが、その心境は皆さんもご存知でしょうが、次の様に語っています。「親も無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無けれど、死にたくも無し」と。また自らを「六無斎」と称しました。これは「六で無し」の語源であると私は思います。(寛政五年〈紀元二千四百五十三年〉五十六歳で帰幽)

もう一人は、地元甲斐の「八代駒雄」の業績を知っている方もいると思いますが、間違いあらば後で教えて下さい。八代駒雄は天保十一年(紀元二千五百五十七年)三月八日産まれです。明治三十年十一月二十七日五十八歳で帰幽しました。生家は、山梨県巨摩群で代々医者を生業としていました。本人は幕末に明治時代の国学者でありました。維新後、甲斐浅間(あさま)神社の宮司を務め、山梨県各地の群長も務めて甲斐養蚕の振興にも尽力されました。

明治十一年 明治天皇は、山梨行幸をご計画あそばされて、八代駒雄を招かれました。この時に、山縣大貳の事績資料を献上し、大貳が勤皇の志士であることを奏上致しました。

明治十三年六月二十一日、小宮山貞影宅に御小休息あそばされた時、侍従北条氏恭に金剛寺の大貳の墓を見聞して頂きました。さらに、小宮山貞影に大貳の説明を受けて、勅旨を遣わし、太政官三条実美の名をもって県令藤村紫郎に祭祀料金二十円を下賜されました。八代駒雄には、明治二十四年(紀元二千五百五十一年)正四位が追贈されました。

大正八年(紀元二千五百七十九年)に山縣神社創建会が設立され、大正十年に現在の地に神社が建立されました。御小休憩所として 明治天皇を御迎えした龍王新町の小宮山貞彰(現名・小宮山久)宅には 明治天皇御小休憩所記念碑がありますので、是非訪れて見て下さい。(文中敬称略)

平成二十六年六月十三日(金曜日)

むさしの倶楽部

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