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【現代訳】古道大意上巻その一②

「古道学の系統」

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平田篤胤翁

まづ第一に申しておかなければならないことは、私の学風を「古学」と言ひ、学ぶ道を「古道」と申すいはれは、古の儒仏の道がまだ日本に渡り来る以前の、純粋な「古のこころ」と「古のことば」をもつて、天地の始めよりの事実を素直に説き考へる事です。その事実の上に、真の道が備はつてゐることを明らかにする学問であるため「古道学」と申すのです。

この学風の由つてくるその始めは、水戸の中納言光圀卿が大いに勢いを盛んにされたのです。この殿が世の中は支那の学問ばかり行はれて、我が国の古い御代のことなどは、心とする者がないことをお嘆きになり、宮中を殊の外ご尊敬せられ、数多くの学者をお抱えになり、世の中のありとあらゆる古書をお集めなされ、また諸国の神社など、全国各地に数多くの人を派遣されて、一枚二枚と足りないものまで、古い書物ならば何でもお集めなされ、それを明細に吟味されて 神武天皇の御代より 後小松天皇の御代まで、御代は百代、年数は二千年余りの間のことを、つぶさにお選びなされ、『大日本史』といふ歴史書をお造りになりました。又『神道集成』といふのもお撰びなされました。また古書はもとより、殿上人の世々の御記録を始め、数百部の書物の中より、朝廷の御礼儀に関はることがらをお集めなされて、全部で五百巻余りの書とされたのです。

これを朝廷に奉られたところ、朝廷でも御感慨斜めならず思ひ召して、その五百巻の御書物に『礼儀類典』といふ御題をお付け下されたのです。

又その頃大阪に契中といふ人があつて、この人は訳があり真言宗の僧となりましたが、篤く我が国の古を信じ学んで、中頃から乱れてきた仮名遣ひを、古書の古言を証拠としてこれを正し、『和字正濫抄』といふ書を著し、その他いろゝゝと書物をつくつて有名となり、光圀卿のお耳に入り、ことのほか気に入られ、たびゝゞ御使者を遣はされ、「お会ひされたし」と仰せられました。契中は固くご辞退申して、まかり出なかつたのであります。ところが光圀卿は大変にお慕ひされて、安藤為章といふ国学に志が篤い家臣を契中の門人として遣はされました。

また『万葉集』はことのほか古い歌集で、歌のみならず、博く古を考へる助けとなるべき書物ですが、その頃までにある注解は、いづれもよろしくないので、よく古に叶つた注解つけるやうにお頼みされたのです。契中は畏まつて、つひに『万葉集代匠記』といふものを撰んで差し上げました。私の万葉学はこれより始まつたのです。光圀卿それをご覧なされたところ、今までのあらゆる注釈とは異なり、ことごとく古言古意を尋ねてこれを記し、はなはだ優れたものでしたから、大変にお喜びになり、白金千両、絹三千匹をくだされたのです。契中(けいちゆう)はその賜り物をしまつておかないで、ことごとく貧乏な者に与へられたといふことです。

また先の『代匠記』を作るとして、おびたゞしく古書を集め考へたとき、その余力をもつて『古今集』へも解説を下して、これを『余材集』と名づけたのです。これを以てその時分まであつたところの注解とは雲泥の違ひにして、誠に立派なものです。その契中は六十三才で亡くなりました。その著した書物は全部で二十五部、巻数は百二十巻余りもあるのです。

この契中に追いすがつて、荷田宿禰東麻呂翁(荷田春満 かだのあずまろ)俗名を羽倉斎宮といふ人が出られて大きく国学をもり立て広められました。四方にその名が高まり、国学の学校を京都に建てようと、公の許可を受けて、その地を東山にしようとしましたが、その事を果たせず、病で亡くなられたのです。この翁、著述の書数が数十部、巻数は百巻余りあつたといふことですが、思ふことがあるとして、末期に多くを焼き捨てましたので、今はわづかに残つたものが五、六部、数巻しか無くなりました。しかしながら、わが古道学の道筋を立てられたのはこの人です。

この次が賀茂の縣主真淵翁(賀茂真淵 かものまぶち)通称岡部衛士といふ人が出られて、家の名を「縣居(あがたゐ)」とつけられたので「縣居の大人(あがたゐのうし)」また「縣居の翁(あがたゐのおきな)」などと申すのです。さてこの翁、荷田大人の門人となり、その志をついで勉学されました。

さてこの真淵の翁は、その師東麻呂翁(あづまろをう)の上を一段上つて、なほ深く考へ、始めて古の道を明らかに得ようとするには、支那思想、仏意を清く捨てなければ、真のところは得難く、歌を詠むも、古の言葉を解くにも、みな神代の道を知るべき方法であることを、懇切丁寧に諭されました。そしてつひには田安の殿に召し出され、国学の師範となられたのです。そして翁は七十三才で亡くなられました。その著した書物が四十九部、巻数が百巻近くあるのです。

その次が、我々が師と仰ぐ本居先生の阿曾美宣長の翁(本居宣長 もとをりのりなが)です。始めは医者でありましたから、本居瞬庵と称しましたが、後に紀伊の国中納言に召し出されて、中衛と改めました。伊勢の国松阪の人で、屋号を鈴の屋とつけられたことから、世に「鈴の屋の大人(うし)」とも「鈴の屋の翁(すゞのやのおきな)」とも申します。 さてこの翁の学問の偉大なことは、その著された膨大な著書を読まれゝばよく分かることで、申すまでもないことですが、その始めは、支那の学問を深く学ばれて、それから国学に移り、縣居(あがたゐ)の大人(うし)に従つてその大志を受け継がれ、学問の道に於いて古より類なき大功をたてられました。

その趣旨のことをかいつまんで申せば、まづその著書『うひ山踏』という書の主旨は、「人として人の真の道はどういふことかを知らずに居るべきではない。学問の志の無い者はだうにもしかたがありませぬが、かりそめにもその志があるならば、同じくは真の道の為に力を用ゐるべきだ。然るに道のことをなほざりにしておいて、たゞ末のことばかりにかゝはつてゐるといふのは学問する者の本意ではない」と言はれ、「又学問は始めよりその志を高く大きく立て、その奥の所まで究め尽くさないでは止むまいと、堅く思ひこむがよろしい。この志が弱くては自づから倦む、怠ることがでるものだ」とも言はれました。

この通り人にも教へられる程のことゆゑに、自分では実にこの通りにされたのです。又その心の公にして私がないことは、弟子たちに戒めた言葉に「我に従つてものを学ぶ方々は、私の後に又よい考へが出来た折りには、必ず私の説に従はなくてもよい。私が言ひおきたることにも間違つたことがあるならば、その違つてゐる理由を述べ、よき考へを広めよ。私が人を教へるといふことは、道を明らかにしようとのことだから、とにもかくにも道を明らかにするのに我をつくすのだ。その訳を思はずにして、いたづらに私を尊ぶのは、それは私の本意ではない」と『玉勝閒』といふ書に書いてをられます。

又村田橋彦といふ人が、翁の門人になりたいといつて、手紙をやりとりした翁の返書を所持してゐますが、その中で言はれたことは、「皇朝の学問においては、秘事口伝などと申すことは露ほどもないのであつて、そのやうなことを言ふのはみな邪道だ。多くの道を説き聞かせることが本意であつて、門弟でなくても、外においても、秘密にしておくことはさらさらない。とはいふものゝ、皇朝の古道にご執心なことは、ご殊勝であり、なによりも悦ばしく存じ申し上げる」と書き送られたこともあるのです。

世間の歌学者、神道者などと名乗る連中が、たとへば歌学者ならば、「三木三鳥」の伝だの「てにをは」の伝だの「古今集」といふものゝ伝授だのと言ひます。また神道者流のいふ「天の浮き橋」の伝だの「土金の伝」だのといふことを言つて騒ぎますけれども、これらは皆その下心に汚いものがあるためすることで、真の学問をする者が、そんなをかしなことはしない方がよいのです。

本居先生は、これから申すとおり、同門佗門の差別無く、知つてゐることは惜しみなく伝へて、清く明らかに学問の筋を立て教へられたために、始めのうちは、かの秘事口伝を専門とする連中には、たいへんに憎まれましたが、ついにはそのお心のとほり世に広まり、その門人帳を見ると、弟子のゐない国は、国内六十六ケ国中、たゞ二ケ国しかないのです。

享和元年の春、京へ上京されて、お宿をとつてをられたをりには、公家のお歴々がた、学問に心がけられるお方は、翁の宿舎へお尋ねになつて、ご入門なされました。世の中に知られた中山中納言殿をはじめ、その他門人の数はおびたゞしかつたのです。

既にその頃御歌の宗匠であられる日野一位資枝卿ですらご感心のあまりに、孫の日野中宮権大進殿といふお方を遣はされ、翁を師とお頼みなされました。そして入学された時のお歌が「和歌の浦に行くへをたどる海士の小舟今日より君を梶とたのまん」と仰せられたのです。

この意味を簡単に申せば、和歌の浦といふ浦に行方をたどつてゐる海士の小舟に自分を見立てゝ大和歌の道をたどってゐる身ですから、今より貴方を師匠とお頼みしたのでございます。他にも御尋ねたる御方々は、この心映えのお歌をお読みなされて、いづれも翁をさして、本居先生、鈴の屋の翁、又は鈴の屋の大人とお尊びあそばし、お頼みなされて、翁の講説をお聞きなされ、閑院の宮様、妙法院の宮様までも、翁を召されてお慕ひあそばしました。

千古の昔よりこのやうなことはなかつたのです。続く

 

防共新聞1149号(平成22年10月号より)より

上巻その一①