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【現代訳】古道大意下巻その三②

下巻その三②

日本が優れているわけ

しかしながら、世の学者達が、ひたすら外国の説にのみ惑い溺れて、我が国のこのやうに尊いことを知らず、たまたまこのやうな真実の説を聞いても、信じることもせず、却つて論破しようとさえ致すのは、返す返すも心得違ひなことです。また世間の外国びいきの学者どものよく言ふことには、我が国は小国で、また国の開かれたのも遅かつたなどとよく申しますが、まず我が国を小国小国と言つて、卑下しやうとしますけれども、国土ばかりでなく、すべての物の尊いと卑しい、良いと悪いとは、形の大小によるものではないのです。数丈の大石も小さな玉に及ばず。また牛馬象などの獣は、大きいけれども人には及びません。どんなに広大な国だと申しても、下国は下国、狭く小さいけれども上国は上国です。 最近世界地図といふものを見ましたが、ロシア、アメリカなどといふ大変に大きな国が数々有つて、中には草木も生えず、人間も住んでゐない所がありますが、それでもこれを上国と言ふのか。それまでもなく、近くは我が国の中でさえ、上中下と分けてありますけれども、それは国の大小をもつて、お定めなされたのではなく、国の産物一体の風土をもつて、上国下国の差別が立つのです。また我が国が開かれたのが遅かつたと言ふのは、知恵がつくのが遅かつたと言つて誹るのは、実は思慮が至らないからです。

その訳は、我が国は万国の祖国、本国であるからにして、自ずから地氣が厚く、申せば大智、大器量の人の知恵の開きが遅いやうなものです。 これは例えば総見院の右大臣織田信長公などは二十歳を過ぎるまでは一向におだやかで拙くて、人はみな馬鹿殿と申したといふことです。また大石内蔵助良雄なども、世の中に美名を伝へた程の人ですが、この方も二十歳ばかりまでも、人は馬鹿だと申したとのことです。このやうな類は昔の器量人にはしたたかに有るのです。

また鳥獣などは生まれてすぐに、米や虫を拾つて食つたり、また生まれて二ケ月三ケ月も経つや、雌雄交合を為したりなどするのも、みな卑しいものだからです。それから見れば人ははなはだしく何もかもだらしのないことです。しかしこれが直に、人が鳥獣よりは尊いところで、外国が速く悪賢くなつたのも、我が国が長らく神代の有様で悪賢くなかつたのも、これに習つて考へるがよいのです。

支那(唐)の『老子』といふ書にも「大器は晩成」と言つてをります。この意味は先に申した大量大智の人や、または鳥獣に比べては知恵がつくのが遅いやうなことを申したもので、これは唐の人ながらよく言ひ当てたものです。

これは思ひついたから申しますが、我が国は前に諄々と申しますとほり、天地の根帯である。近くの草木の実で例へれば臍の所で、瓜や桃の実などがだんだんに大きくなるのは、ヘタの所から頭の方へ育ちますが、その育ち上がつた上で熟するには、成り収まつた末の方から熟してきて、臍の所は一番後に熟するものです。これはヘタの所は、成り初める本の所ですから、氣が厚いためです。草木の実が生つて熟するのも、人が生まれる訳なども同じことで、天地の出来初めの様子と、さらに変はりはないのです。ただしこのやうに詳しく申しても、合点がいかない人は、やはり合点がいかぬものです。しかし段々と講説を進めて聞かれた上で、かれこれ思ひ合はせて悟ることが出来たなら、その時は篤胤がクドクド言ふぐらいではなく、筆で書こうとすれども、唐の人が申したように、「書は言葉を尽くさず」と言ふやうに書ききれないのです。しからば口で言はうとしても、かの「言葉は意を尽くさず」と言ふやうに、口に余つて語りきれないのです。そこで「手踊り、足の踏むことを知らず」とも言ふやうに、小躍りする程、ここちよいことのあるもので、篤胤の講説ぐらいは、居眠りしながらでも言へることです。    ただし何によらず、外国でつくられた事物が、我が国に渡つてくるとそれを少しばかり見て、その上を遙かに立ち超へて、その事物が出来ることも、我が国の人の優れたところです。それはこの篤胤がやつても外国人よりはきつと良く出来ます。これが我が国の風土の自然で、自然と申すのは神の御国だからです。これらについても、細やかに考へた事もありますが、それは「医道の講説」の時お話しするつもりです。

下巻その三③

「カムヤマトイワレビコ(神武天皇)」

皇孫ニニギノミコトは、まず筑紫の日向の高千穂の峰に、天降りあそばして、大宮所と成るべき所をお尋ねなされて、吾田の笠狭の御碕の長屋の竹島を都となされて、天の下を治められたのです。ここにおいて国ッ神たちは、何れもニニギノミコトを天ッ神の御子として畏んで仕え奉られました。このときより代々の天皇を、天ッ神の御子と申すことになつたのです。このやうな訳ですから、天子とお呼びするのは字音であって、元より漢語ですが、この天ッ神の御子と申し上げる尊称によくかなつてゐる言葉で、まことに天子と称するは我が天皇に限ることです。それにつけても唐の王を天子と言ふことが当たらないわけは「漢学の大意」のときに論弁するつもりです。

ニニギノミコトは、笠狭の御碕になる竹島に御座なされて、天の下を治められ、オオヤマツミノ神の御娘、コノハナサクヤヒメノミコトをお迎へなされて、お生みあそばしたのがアマツヒダカヒコホホデミノミコトと申し上げます。このヒコホホデミノミコトが、わけあって海ツミの宮と申して、則ち海宮にお出でなされて、そのワタツミノカミの御娘、トヨタマヒメノミコトと申す神をお娶りあそばし、お生みなされたのがウガヤフキアエズノミコトと申し上げます。さてそのフキアエズノミコトと同じくワタツミノ神の弟娘、タマヨリヒメノミコトという神をお娶りあそばして、お生みなされたのが、カムヤマトイワレビコノミコトと申し上げます。このお方の御代に、日向の国笠狭の御碕より、大和の国へ都をお遷しになられて、かのナガスネヒコなどをご誅罰あそばしました。これが一般にもよく知られてゐる 神武天皇様でございます。ただし 神武天皇と申し上げるのは、誠の御名ではないのです。実の御名は前に言った、カムヤマトイワレビコノミコトで、それをはるか千年ばかりも後の世に、唐風のおくり名を奉つて、神武天皇と申し上げたものです。

「天神・地神」

さてここで申さなければならないことがあります。それは俗の学者の説、及び一般の人もみんな申すことに、天神七代、地神五代、人王何十代などと申しますが、これはその初め、如何なる人が言ひだしたことでせうか、大変な誤りで、全く当たってゐないことです。それはまず、『古事記』にも『日本書紀』にも、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでを、神代七代と申す理由は見えますが、クニノトコダチノカミ以下、イザナギ・イザナミノカミまでこれを天神と申すことは見えない。七代の神たちは、みなこの国土に付いてお生まれなさつたことだから、天ッ神と申すべき謂はれはないのです。

天地最初の、早くより天に御座なされた、アメノミナカヌシノカミ、次にタカミムスビノカミ、カミムスビノカミ、次にウマシアシカガビコノカミ、アメノトコタチノカミこの五柱の神々を、古事記では分けて、天ッ神と記されたため、それより以下、クニノトコタチノカミよりイザナギ・イザナミノカミまでは、天神と申さないことは明らかです。しかしながら正しくこれを、国ッ神と称したことも物の書には見えません。国ッ神と申すのは、ニニギノミコトより後の御代に至つて、この国なる神を、天ッ神に対する時に申す尊称です。 また天照大御神よりフキアエズノミコトまでを、地神五代と申すのも、大変な間違ひです。その訳は天照大御神は、この国土にはお生まれあそばしましたけれども、御父神イザナギの大神の御心として、天を治められ、今も目の当たりに拝み奉る、その天日を治められる神におわせば、天ッ神なることに論はなく、その子オシホミミノミコトも、そのお孫ニニギノミコトも、天にお生まれあそばしたことですから、これは本より天ッ神である。それだからニニギノミコトがこの国に天降りあそばしてこの世を治められ、その御子ホホデミノミコトより、ご子孫の次々を天ッ神の御子と申すのです。ただしホホデミノミコト、ウガヤフキアエズノミコトはこの国にお生まれなされたために、天ッ神とは申しません。しかしながらまたこれを、地ッ神申したことも、更に物の書には見えません。それはなぜなれば、この国土にお生まれあそばしましたけれども、天ッ神の御正統におられるがために、皇孫命とも、また漢文で書くときは天孫とも申すのです。このやうな訳ですから、どうして天照大御神や、オシホミミノミコト、またニニギノミコトを地ッ神と申すべき謂はれがありましょうか。

およそ天神七代、地神五代と申すことは、古書には全く見えないのです。忌部正通の神代の巻の口約というものに始めて見えたことです。これは事の意味も、古のことも考へず、強いて天と地とに当てはめやうとして、みだりに言ひ出した後世の俗説です。なのに、世の学者どもはそのやうな心得もありませんのに、賢こそうに天七地五などと言ひます。また神武天皇以下を、人王とか申して、すなわち天地人の三元に似せる等と言ひます。また天を治める天神と申すなどと言ひ、あるいはこの七代五代を天の七星、地の五行に似せると言ひ、又は易の八卦に当てはめて説くなどすれども、すべて近世の唐思想の輩の私説で、みな受け入れられないことです。また佛説好きな者は、この七代を過去の七佛に形どるなどと申しますが、このやうな類は耳に触れるのも、聞くのもけがらわしく、片腹痛く、誠にはなはだ恐れ多い御事であります。続く

防共新聞一一五七号(平成二十四年十月一日)より