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【2/11】「即位建都の詔」渙発あそばされて二千六百七十七年

本日は紀元節。宮中を始め各地で祭祀が執り行はれ、天皇尊におかれましては橿原神宮へ勅使を遣はされました。
明治五年、太政官布告によりて 神武天皇が即位した日をもつて紀元とし,、宮中皇霊殿では 天皇親祭の祭儀が行はれ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行はれた。明治二十四年に小学校祝日大祭儀式規程が定められ、天皇皇后両陛下の御真影に対し奉り最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行ふことになつた。その後大正三年からは全国の神社で紀元節祭を行ふこととなつた。大正十五年からは民間の青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるやうになつた。大東亜戦争終戦後にはGHQにより祭祀の禁止令がでたが、昭和二十四年より 先帝陛下が臨時御拝といふ名で宮中祭祀を御復活あそばされた。昭和二十七年の占領期終了に伴い、先人達による紀元節復活運動が巻き起こり、昭和四十二年に「建国記念の日」として政令により定められた。これに伴い各神社でも紀元祭が復活された。
日本の国体を衰弱させんとするGHQの占領政策ではあつたが、先人達の努力によりて見事復活を果たした紀元節であり、今も各方面で紀元祭が活発に行はれてゐるを見るにつけ、万邦無比の国体は揺るぎないものであると確信す。あゝめでたきかな。
即位橿原建都の詔
我東(あれひむがし)に征(ゆ)きしよりここに六年(むとせ)になりぬ。皇天(あまつかみ)の威(みいきほひ)を頼(かがふ)りて、凶徒就戮(あだどもころ)されぬ。邊土(ほとりのくに)未だ淸(しづ)まらず,餘(のこり)の妖(わざはひ)尚梗(こは)しと雖も,中洲之地(なかつくに)復た風塵(さわぎ)なし。
誠に宜しく皇都(みやこ)を恢(ひら)き廓(ひろ)め,大壯(みあらか)を規(はか)り(つく)るべし。而して今、運(とき)此の屯蒙(わかくくらき)に属(あ)ひ,民心(おほみたからのこころ)朴素(すなほ)なり。巣に棲み穴に住む習俗(しわざ)、惟常(これつね)となれり。夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ。義必ず時に随ふ。苟くも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば,何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。且た當に山林(やま)を披拂(ひらきはら)ひ、宮室(おほみや)を經(をさめ)営(つく)りて,恭みて寶位(たかみくらゐ)に臨み,以て元元(おほみたから)を鎭むベし。
上(かみ)は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ,下(しも)は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまふ心(みこころ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて都を開き,八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと,亦可からずや。夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原の地(ところ)を観れば、蓋し国の墺區(もなか)か。治(みやこつく)るべし。
#国体明徴