一艸獨語(ひとくさのひとりごと)連載その二 時局對策協議會議長代行・同血社會長 河原博史

復刊五号(平成二十六年七月一日)より

皇國功人列傳 雨森芳洲(前篇)

芳洲、雨森氏、名ハ誠清、字ハ伯陽、通稱東五郎、木下順庵の門に遊て、新井白石、室鳩巣、祗園南海の諸老とゝもに名を天下に成せり。―伴蒿蹊著『續近世畸人傳 卷之四』(寛政十年刊)


 

雨森芳洲翁の肖像畫

雨森芳洲翁の肖像畫

雨森芳洲は、寛文八年五月十七日(西暦一六六八・六・二六)近江圀(滋賀縣)伊香郡雨森村(※當時)にて醫を業とした家庭に生まれる。寶暦五年一月六日(同一七五五・二・一六)對馬日吉の別莊にて歿す。年八十八。
芳洲は元祿二年、廿二歳で師木下順庵の推擧を以て對馬藩に就職した。その後、長崎で唐語を學び、往復すること二度。元祿十一年三月、三度び對馬に赴き朝鮮方佐役を任命される。對馬に仕へること約六十年、對馬は芳洲の人生そのものであつたと云うて過言にない。
彼れは單なる一儒者ではなく、語學者であり、研究者であり、そして教育者としても認む可き才あつた。彼れは能く通譯の養成に努め、後進の指導を行なつた。また精力的に執筆活動も行なつた。彼れが寶永年閒に編んだ『交隣須知』など、日本最初の日韓辭書として幾度もの改訂をされながら、明治時代まで有用された。
加之、彼れは對李氏朝鮮との現場に際して、優れた外交擔當者でもあつた。その外交は決して高壓的態度を執らず、無論卑下せず、和しつゝも能く日本の面目を保持し得た。「彼れを知り、己れを知る」彼れの研究成果は、朝鮮を相手取り好成績を遺した。これに就ては後述するであらう。
そして彼れは何よりも大義名分を重んじた。時節柄彼れの尊皇は、幕末以降に見られるやうな即時勤皇へと繋がる類ひのものでは無かつたかもしれない。だがしかし、當時誰れしもが「將軍樣あるを知りて 天子樣あるを知らず」といふ風潮夥しきなかにあつて、能く 皇國の眞相を理解してゐた數少なき一人であつた。彼れをして、順庵門の出世頭、新井君美(白石)と所謂る「日本國王號問題」で激しく衝突せずんばやまなかつたのも、畢竟この爲めであつた。

當時の世相

芳洲の多感な少年期に於ける執政者は第四代將軍・家綱であつた。その前將軍・家光は征夷大將軍に襲職した際、諸大名を集めて「家康秀忠の二代は外樣大名に對して遠慮もあつたが、自分は生まれながらの將軍である。よつて今後は外樣も譜代同樣に取り扱ふのでさう心得よ」なる旨を通達し、諸大名の改易轉封を容赦なく行なつたことは知られてゐる。また「島原天草の亂」を鎭壓し切支丹の活動を一掃し、鎖國政策も成功を收め、對内的にも對外的にも德川幕府の脅威となる可き不安分子は眼中より消滅し去つた。同時に江戸城の大掛かりな工事は完成、日光東照宮の造營も行なつた。これは乃はち、家康を神として祀ることによつて、單なる將軍から王家としての權威を有しようとする試みがあつただけでなく(事實、家康は〝神祖〟と呼ばれた)、華麗を極めた東照宮の建築や彫刻を以て、德川家が美術・工藝などの文化の壓倒的な支配者であることを全國民に廣告する舞臺裝置の役割もあつた。彼れらの目論見は、これまで萬世一系の絶對神聖と、唯一 天皇に在した宗教的權威に、對抗と云はずんば匹敵しようとしたわけであつて、家光執政の頃から公武の閒で不和が顕著となつたことからもこれを窺ひ知ることが出來るのである。然るに家光は三十萬もの兵を率ゐて上洛し、おそれおほくも朝廷を威壓し奉つたのであるから、その眞意那邊にあつたか、筆者は文字に記すことすら恐怖し憚らねばならぬのである。
兎にも角にも、その相續者である家綱の時世に於ける幕威推して知る可しだ。幕威逞しいといふことは、德川家にとつての安定期を意味する。刀や槍の揮はれなくなつた安定期では、商人が擡頭するは當然の趨勢だ。從つて家綱執政の延寶年閒は、元祿時代の前觸れともいふ可き世相であつた。京都の文化は豪華絢爛、東山の衣裝比べはその代名詞のやうなものだ。野生は平和と奢侈の蔓延る時代を必ずしも良しとしない。だが、絶對的に惡ともみない。何故なら戰國亂世の時代下では到底發達す可くもない學問や文化も、平和な時代と國民の富裕あつて大に飛躍することを知るからである。芳洲はかうした時代に(芳洲十二、三歳)、父の意を繼がんと醫師になることを志し、伏見の名醫高森氏に就て修業する爲め、京都に遊んだ(延享四年『橘牕茶話』參考)。

醫學から儒學へ

嘗て亂世の時代、敗れた側の國々では國替へや改易が行なはれた。その爲めその都度、大量の武士などが牢人として扱はれることゝなつたのである。彼れらのなかには生計を立てる爲めに仕方なく、武士を捨て醫師へと轉向した者も決して少なく無かつたのである。
ところでこの頃の醫學、醫術と云へば漢方であつた。當然、醫學書はすべて漢文で記されてある。よつて醫學書を讀む爲めには、如何しても漢文漢書を讀みこなすだけの知識が必要である。然も當時、醫學の基礎を學修する爲めには、人閒學としての儒學を知らねばならなかつた。彼れら醫者にとつて、漢籍や儒學の教養は必須であつたのだ。著名な儒者や國學者に醫師の倅が多かつたことは、決して理由なきものとしない。
またこの頃の通念として、醫は人を癒やし、儒は國を癒やす、といふ概念があつた。そこで人を癒やすことゝ國を癒やすことゝを比較したとき、儒は醫よりも遥かに貴いと考へられた。優れた大儒の門人におほく醫師が輩出されたのも、この通念があつたからである。だが儒者にもそれ〴〵で、大概は貧しい暮らしを餘儀なくされた。一方で、醫師は生計を立てるだけの收入が見込めた。詰まるところ、醫者は金にはなるが賤しく、儒者は生活に困窮するが貴い、といふ風潮であつた。
いつしか芳洲は醫者になることよりも、儒者ならんことを志望するやうになつた。天和二年、芳洲十六、七歳の時、彼れは醫學を廢し、木下順庵の門人・柳川震澤に儒學を學ぶ。

江戸に遊ぶ

翌年(天和三年)、芳洲は江戸に下り震澤の師・木下順庵の門に入る。
順庵は藤原惺窩の門人・松永尺五の教へを受けた。京都の生まれ。順庵は伊藤仁齋、荻生徂徠のやうな獨創的な朱子學批判は行なはず、朱子學を正統のものとして考へた思想家である。とは云へ、山崎闇齋・淺見絅齋のやうに嚴しく正統を追求する態度でも無かつた。順庵の門下には新井君美、室鳩巣、祗園南海など、思想的に疑はざる可からざる點必ずしも少なしとは云へないが、これを姑く措くも。順庵は教育者として、弟子たちの個性を伸ばすことには長けてゐたと云へる。尤も、順庵は芳洲の江戸へ下るその前年、幕府の儒官となつてゐたので、弟子たちに多くの出世の糸口を與へることも可能だつたのであらう。德川幕府の儒官といふことは、儒學者にとつてはエリート中のエリートであつた。だが順庵を林羅山などと同じく看做すのは早計だ。彼れは寛文十二年に水戸光圀と會ひ、以後親しく交際を續け、又た明の遺臣であつた朱舜水とも往來してゐたことから、多少であるか少々であるかは別としても、順庵が交誼を重ねるに足る人物であつたと認められてゐたのであらう。さう云へないにせよ、順庵が光圀や朱舜水より被りたる感化、決して少々でなかつたことは疑ふ可きでない。茲で簡單に朱舜水に就て觸れる。舜水は明の滅亡によつて長崎に亡命してきた。萬治三年(西暦一六六〇年)、舜水五十九歳のときだ。光圀、舜水の名聲と學識を認め、これを招聘した。舜水の影響は水戸學に及ぼすところ、決して少なくなかつた。主にその筆頭として掲げる可きは「正名」つまり名分を正すといふことであつた。これは王朝の正統を嚴密に問ひ、進んで正統の王に如何に忠を盡すかといふものである。これを日本に當て嵌めてみれば、正統たる南朝側を支へて最後まで戰ひ、壯烈な死を遂げた楠木正成こそ、日本の忠臣、士の鑑たる可き、となる。のちに光圀が湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を建てた際、用ゐられた贊は舜水によるものである。
舜水は山鹿素行や大日本史編纂に參畫した安積澹泊など、弘く人士と交流した。その内の一人が順庵だ。順庵は舜水に能く質問し、能く學んだ(順庵著『錦里文集』)。而して兩者の交はりは天和二年、舜水八十三歳にて逝くまで十年以上も續けられた。
順庵門内では、舜水歿後も舜水の話題が語られた。芳洲は遂に舜水と相會することは無かつたが、尊皇の氣風が脈々とする京都で育つた芳洲は閒接ながら敏感に影響されることもあつたと見える。その一例として、順庵の『錦里文集』では、江戸を〝東武〟と稱し。その弟子室鳩巣は〝東都〟と云うた。しかし芳洲は〝東藩〟或は單に〝東〟と稱するに止まつた。芳洲は幕府を否定するには至らなかつたが、到頭江戸を〝都〟と認めるにも至らなかつた。(敬稱畧、以下次號)