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思想戦に退却は許されぬ 福田草民

復刊五号(平成二十六年七月一日)より

 

◆最近永田町の世界では、維新、維新と何かと維新の安売りをしてゐる。維新と言へば「明治維新」を国民に思ひ浮かばせて、大改革の断行をするのだとのアピールであらう。確かに戦後に於いて、自民党を軸にした時代が長く続いたせいもあり、また民主党の不甲斐なさも手伝つて、大風呂敷を敷いてゐるのであらう。よもやそのやうな似非維新にダマされる国民でもなかろうが。
◆明治維新は 尊皇を旗印に、様々な大改革が断行された。政治改革はもちろんこと、経済改革、教育改革、宗教改革、文化改革、文明改革などなど。殆どの御仁は政治改革に目を向けがちだらうが、最も大切な改革は宗教的改革であらう。
◆「尊皇は思想に非ず信仰なり」とは前号に記したが、そもそも日本に於いて思想とは、哲学や信仰と一筋で繋がつてをり、信仰なき思想はあり得ないのである。思想・哲学・宗教を分別してゐるのは、支那及び西洋の考へかたである。斯様な観点から明治維新の最も大切であるのは宗教的改革である。
◆次の文は、他誌にも寄稿したのだが、信仰なき思想(政治)の悪しき例を挙げてみる。「今日、保守の雄とされてゐる石原慎太郎氏は、今年三月に出版された『文學界』(文藝春秋)に「石原慎太郎『芥川賞と私のパラドクシカルな関係』」と題されたインタビユーで「皇室について、どのやうにお考へですか」との問ひに「いや、皇室にはあまり興味はないね。僕、国歌歌はないもん。国歌を歌ふときにはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』つて歌ふの」と発言してゐる。(後略)文脈からすれば『わがひのもとは』とは、「俺の日本」と言ふ意味になる。この発言でも分かる通り、石原氏は日本の真個たる信仰はなく、欧米に見られる国家主義の最たる輩であらう。
◆石原氏のみならず、斯様な思想の持ち主が多く出現し、右翼呼ばわりされたり、真の保守と称されたりしてゐる昨今、迷惑千万と言はざるを得ない。
◆明治維新は様々な大改革であつたとは先に述べたが、維新は一朝一夕に突然起つたのではない。清原貞雄著の「国学発達史」によれば、国振りを顕かにするためには、紆余曲折を経て、平田篤胤翁で絶頂期を迎へるのであり、その原動力を以て維新に繋がつたのである。
◆戦後か戦前か、の論議が軸をなしてゐるが、実は明治維新完成までの道のりに敗戦といふ岩に躓いたのであり、戦後の憲法や国語改革などといふモノは、ほんの微弱な壁であることは「国学発達史」にも見て取れる。先人たちはもつと大きな壁を何百年否何千年も掛けて国体明徴に努力して来たのである。しかし現時の保守と自認する者達が、思想=信仰の退却を図り、「維新」の安売りを行ふのであれば、その者達が国体の破壊者となり得るのである。
◆石原氏を日本の良心とし、維新を未完で終はらせては断じてならないのである。国学を更に発達させ、国振りを更に明徴させ先人の後を続かうではないか。