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敬神とは随神の道を知る事なり  福田 草民

◆藤田東湖大人が水戸藩主水戸斉昭公に命を受け、弘道館義の内容を注釈した弘道館記述義があるが、その巻の上第十四段「皇化陵夷」にはかう記されてゐる。「中世以降になると、異端邪説の民を欺き世を惑はす者が跋扈し、俗儒曲学輩は我を捨てて一切彼に従ふといふやうになつた。其の結果、天皇の徳化は衰退したのである」(通釈)と。また餘説には、皇化陵夷の諸原因を探求し、之を救ふのは古道の振起にあることを説いた。 ※陵夷とは 陵が次第に平ら(夷は平らの意)になること。転じて、物事が次第に衰え廃れることを指す。(歴史民俗辞典)
◆古道の振起にあたり、天保十三年(西暦一八四二年)
斉昭公は「喪祭式」を公布した。藩内の葬式を仏式から神葬祭式による奨励した。当時、藩内では仏式による葬式が七割を占めていた。◆現時の神葬祭の形式は、仏式による葬儀に対抗したものだが、すでに徳川光圀公が「神道集成」に神葬祭の儀式を編入してゐた。因みに「神道集成」には「凡そ是の書の始終両部習合の邪説を排して唯一宗源の正道に帰す」とあり、神仏習合を批判してゐた。その後の国学の普及により全国各地の神職から神葬祭復興の運動が盛り上がり、先に述べた水戸学風が、嘉永四(西暦一八五一)年に吉田松陰大人や弘化元(西暦一八四四)年に真木和泉大人始め、水戸を訪れた各地の志士に影響を与へた。特に吉田松陰大人は水戸を訪れた時、水戸藩で実行中の「自葬祭式」に大いに共鳴し、書写して「里民に論する檄」を添へて萩の同志に送つてゐた。後に、それが影響して、長州藩でもこの自葬祭式が広まりを見せるのである。
◆明治維新後の廃仏毀釈の風潮のなかで、新政府は明治五年に公式に神葬祭を認め、青山墓地などを造成してその普及を奨励した。つまり明治維新の大大目的であつた「復古」の具現化しであつた。
◆戦後、国家神道や廃仏毀釈は強制的であつたと、保守を自認する輩からも、占領軍に追従するやうな意見を耳にするが、そもそも外教を尊び、本教を疎かにすれば、敬神とは名ばかりで、当然、尊皇の掛け声も疑ひの目で見ざるを得ない。
◆冒頭にも述べたが、「異端邪説の民を欺き世を惑はす者が跋扈し・・・」とは現時で言ふところの「敬神・尊皇」なき国家主義者たちだらう。明治維新後の宮中には、外教(仏教)色が消へた事実を、臣民は畏みてそれに倣ふべきである。
◆畏れ多くも 皇室を否定する共産主義は廃れ、少数派になつた今、陣営は本道に立ち返り本教を修め、将来に備へ、皇道維新の基礎を作らねばなるまい。
◆今年、松蔭高校の卒業式では、生徒から送られた日の丸の憲章を襟に付け、卒業式に臨んだと言ふ。これは陣営の教化の成功例である。相手を恐怖に陥れる運動方法は、世が混沌としてゐる時か戦時に通用するのである。世界皇化の精神は、随神の道あつてはじめて成し得ることを明記する。