神と仏を同一視するなかれ=日蓮宗の三十番神信仰は反国体信仰=

復刊六号(平成二十六年十月一日)より

四年後には明治の御一新より百五十年が経つ。周知の如く御一新は近代に於いて大々改革であつた。政治改革としての御一新は言ふに及ばず、教育改革、経済改革等々多岐に渡つたが、中でも国体を顕かにするといふ意味では、宗教改革としての御一新に着目せねばなるまい。御一新は祭政一致の復古であつたから、慶応三(西暦一八六七年)太陰太陽暦(旧暦)正月十二日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、三月には神仏分離令が布かれた。徳川幕府当時からの復古運動や特権的階級であつた寺から搾取を受けてゐると感じていた民衆によつても、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かつたのである。
時代は遡り鎌倉の仏教は、当時末法の世とされてゐて、新興宗教が勃興した。中でも新興宗教の一つである日蓮宗は、過激な辻説法や政治に口出しをする事から、今までの仏教と比べ斬新であつた事から、武士や民の信仰を集めた。しかしその内容たるは、反国体に終始した。
その内容の一つに三十番神信仰と言ふのがある。太陰太陽暦(旧暦)の一か月間三十日のあいだ、毎日交替で国家と人々を守る日本国内の三十柱の神々を三十番神といふ。
その元は、神仏融合思想の起こつた平安時代の中頃には既に存在していたが、日蓮宗では三十番神信仰を法華神道と呼び、修法(祈祷)の本尊の守護神とした。その歴史は、日蓮が比叡山遊学中、横川定光院に三十番神が姿を現はし、法華経とその行者を守護すると誓はれたことから始まつた。実際の信仰が広まつたのは、京都に開教した日蓮の孫弟子、日像の時代。その後、「立正安国論」の神天上思想にもとづく信仰になり、加藤清正の信仰により、更に西日本を中心に広まつた。因みに三十番神の十日目は 天照大神の御字が記されてゐる。
このやうに、畏れも憚らず、神の上に仏があり、天皇尊や時の将軍が法華経に帰依しなければ国が滅ぶとまで言ひ切つた。ここに仏教の本質を見る。鎌倉幕府は 後醍醐天皇の聖猷を「天皇ご謀反」などと主従転倒な思考は日蓮宗と同列である。
明治の御一新は、六六〇年の長きに渡つた武家の世から、また神仏習合から、余計なものを取り払つた「復古維新」なのである。
鑑みて、神武天皇建国の時には、武家も仏教もなかつたのである。「不純物」を徹底的に除去し、純化してこその国体明徴である。