第一次世界大戦勃発より百年=所謂「集団的自衛権」の先駆け乎=

rengougun

左よりアメリカ、カナダ、イギリス、支那、イタリア、チェコ、日本の各軍兵

復刊五号(平成二十六年七月一日)より

最近、マスコミの過度なる「集団的自衛権」の報道に接し、左右両陣営から喧々諤々とした論争が繰り広げられてゐる。所謂現行憲法の拡大解釈か否か、憲法改正か否か、の政治的議論に大別できると言へよう。集団的自衛権を要約すれば、「他の国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けてゐない第三国が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。」との事である。
日本は歴史に於いて、この集団的自衛権に近い意味をもつた御戦を展開した事がある。それは第一次世界大戦である。
大正三年六月二十八日、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の甥で皇位継承者であつたフランツ・フェルディナント大公がサラエヴォに於いて暗殺された。これを切つ掛けに第一次世界大戦の火蓋が落とされた。
日本は日英同盟に基づき同年八月二十三日にドイツ国に対し、詔書をもつて参戦した。

独逸国に対する宣戦の詔書
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本国皇帝は、忠実勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に独逸国に対して戦を宣す。朕が陸海軍は、宜く力を極めて戦闘の事に従うべく、朕が百僚有司は、宜く職務に率循して、軍国の目的を達するに勗(つと)むべし。凡そ国際条規の範囲に於て、一切の手段を尽し、必ず遺算なからんことを期せよ。

当時の情勢を鑑みると、日本とドイツの間には、敵意辛辣は無かつた。しかし英国は支那(清国)に於いて、東北部での自由貿易や商工業活動をすることが第一の目的であつた。しかし、ロシアの三国干渉以降の支那への進出は、極東における英国の地位の低下をもたらしていた。
英国としては、ロシアの満州における市場・権益の独占を排除しようとしてゐて、また英国は日本が満州に進出することにも抵抗感を持っていた。
しかしロシアは義和団の乱の時に、大軍を満州に進軍させていた。この事態は、英国の清国に対する活動を阻害する状況であった。
英国の支那における貿易は上海から武漢までの揚子江沿岸であつたが、租界より外は治安が極端に悪く、地方行政府や中央政府も外国人を襲撃する状況であつた。英国は西太平洋に戦艦五隻を含む支那艦隊を派遣していたが、陸上の治安維持のために陸兵が必要であったが、この時英国はボーア戦争に苦しんでおり、欧州情勢でも、キッチナーがファッショダでフランス軍と衝突しフランスと協議中であり、またインド北西国境ではアフガニスタン、さらにはロシアが背後で操つてゐたイスラム教徒の反乱、マラカンド戦争やティラー戦争に苦しめられ、英国は当時世界的に孤立した立場だつた。
当時の英国が世界的に孤立した状況にあり、これ以上の軍隊を各地に派遣することに無理があつたのだ。
このやうな状況から英国は他国との同盟を模索し始め、当初は清国における利害関係が一致するアメリカとの同盟交渉を考えるが、マッキンリー大統領は伝統的な孤立主義政策を守り、同盟は実現しなかった。
次にドイツとの同盟に方針を転換したが、ドイツは英国との同盟はロシアを刺激するとして、交渉は決裂した。当時のドイツとしては露仏同盟の形骸化を考えており、ロシアが極東に大兵力を置くようにしむけ、ロシアが極東に大軍を配置すれば、ドイツは東西両面作戦から免れることができ、当時のドイツ指導者にとては、得策であつた。
ロシアの軍が大量に極東に移動すれば、フランスは譲歩して英国に接近してくると考へ、英国にとつて日英同盟がフランスと協調できると考へた。つまり、ロシアの極東での動きは、フランスに対してドイツに有利に働く。その結果、英国に対してフランスが譲歩し接近してくる事が考へられた。
斯様な欧州の情勢から、英国は積極的に日本との同盟を望んだのではなく、結果として日英同盟を結ぶことが、英国の利益となると政治的に判断したのである。
斯様に日本の第一次大戦への参戦は、直接的な因果関係はなかつたのであるが、「同盟」といふ信義に基づき参戦したのである。また、日本は他国と違ひ、建国以来
みことのり必謹に専務する国振りである。いざ
みとこのりが発せられたならば、何の疑いも無く謹んで遵はねばならない。今の集団的自衛権の議論に不足しているのはここである。ちなみにその前後をして、辛亥革命が起り、大戦後には、至上最悪と言はれたベルサイユ条約が結ばれ、またロシア革命が起り、またもや世界の秩序が乱れて、第二次大戦へと向かつて行くのである。第一次大戦で英霊となられた日本の将兵は約三百名である。