皇道日報とは

皇道日報

皇道日報は昭和八年、福田素顕が創刊し、昭和二十年九月一日(第三千五百七号)まで刊行していた。同年十月に入ると連合国軍総司令部(GHQ)は、山崎巌内務大臣名で皇道日報社に出頭を命じ、大佐を首班とする将校十八名と通訳三名による尋問を行つた。

この時、福田社主を始め主要幹部は八時間にわたつて「皇道のみが人類に平和と幸福をもたらす」と力説、「民主主義は我が指導原理ではない。共産主義及び社会主義は野蛮思想」などと主張したが、最初から廃刊命令を意図してゐる戦勝者を得心させることはできなかつた。

数日後、GHQは十月号の印刷直前検閲を行い「内容が国粋主義的である」として原稿を没収、以後の刊行を禁じた。
皇道日報の社員と同志数十名は、同年十一月に入つて戦中の「後楽会」を再建させ、国体否認の逆賊対策を協議、国家再建運動に立ち上がつた。

とりわけ昭和二十一年五月十九日の食糧デモは、皇居前広場に二十五万人を集結させ、暴徒化した一部は、 天皇陛下を批判するプラカードを掲げて坂下門から宮城に乱入、群衆の声はついに一天万乗の 大君にも届き、宸襟を悩し奉る事態となつた。

福田素顕以下の同志は、GHQ、政府、検察、警察などへ出向いて「告発」「要望」「勧告」「請願」等の運動を展開させたが、しかしおのずと限界があり、昭和二十三年十月、良民に向かつて警鐘を乱打するべく、新聞名を「防共新聞」と変え、編集長は日本ホーリネス教会の牧師である荒原諸呂磨(故荒原牧水先生の兄)。

昭和二十三年十二月二十日に第一号の刊行にこぎ着けた。新聞の生命ともいへる「題字」が間に合はず、稚拙な手書きとなつた。

今日に伝へた「防共新聞」の題字は第二号からで、書道の八意流宗家・東良柳雪先生の手による字体である。

創刊号の題下には「編集人・荒原諸呂磨。印刷発行人・脇田利行。一部七円、送料四円。直接購読者は百円以上払ひ込むこと」と記されてゐる。

時代の歯車が回転し、第二次安保闘争の終息、全共闘運動の消滅、東西冷戦構造の崩壊と続いて、人々は共産主義では人類を救へないことが分かつた。

以来防共新聞と名を変へ六十三年間を経て平成二十五年六月、「防共の使命はひとまず達成」と捉へ、尊皇の発揚、国体明徴をより鮮明にするため「防共新聞」を「皇道日報」に復元することを決意した。

福田草民