【現代訳】古道大意上巻その一③

平田篤胤翁

平田篤胤翁

さてここに一つの話があります。それは今の世に戯作者といふのがあつて、あちこちの書物を見かじり、あそこを取つてここへ継ぎ、無いことも有るやうに、面白をかしく書き取つてそれを渡世しておる者ですが、とかく小利口に立ち回つて、面白そうなことは猿のやうに人まねをします。既に本居先生の、古にタカミムスビノカミと申す神が天上にましまして、世の中の万物人種をもお造り出しなされたといふことを、その著書に何度も述べておるのです。

またオオマガツヒノカミと申す神がおわして、世の中の悪いことを司ります。又オオナオビノカミと申す神がおられまして、その悪い事を良い方に返そうとなされます。これも古書によつて言ひおかれたとみるやすぐさま、善玉悪玉といふ戯作本をつくつて、天道さまが竹の管でもつて子どもがシヤボン玉を吹くやうに、図などを書いて世に広め、また今流行つてゐる五冊ものとかいつて敵討ちや、因果話を書き綴つたのをみると近頃出来たものほど古い言葉を交ぜて書いています。

また一人でぶつぶつと小言をいふことを、古い言葉では「一人ごちて」と言ひます。その戯作本にこんな言葉もあります。また俗に「それはこれは」といふのを「そはこは」と言います。このような言葉も戯作者がまねて書きます。これはどうして彼らが知つて書くのかといへば、みんな我が翁の著した書物が、古の言葉で書いてあるために、それを見よう見まねでやつてみるのです。

ここに又をかしいことがあるのは、我が同門の者のところへ、俳諧をする者が来て、その者が庭に亀の子が来たとして大いに喜び、そのことを文章らしく書いて、持つてきて直して下さいと言ひますから、それを書き直し、亀の子が「不意に来た」と書いてあつたところを「ゆくりなく」と直してやったところ、その人が言うには、他はよいですけれど、この「ゆくりなく」という言葉があつては、今流行る五冊物のようで悪いですから、昔のよい言葉に直してもらいたいと言ひましたので、これには同門の者もあきれたという話です。なんと戯作者どものしわざにしろ、その真の言葉が俗の言葉だと思うほどに、翁の徳は行き渡り、世にまたといない翁ですけれども、世の人は知りません。耳の悪い、所謂つんぼの者は雷が鳴つても全く聞こえない。盲人はいかなる面白いものも見えないやうなもので、世に道を学ぶとか、学問するとかいふ人々も、知らず知らずその徳を蒙つてをられるのも、この翁がそれほどありがたい先生であることを知らないのです。

さて翁の著されたる書物が五十五部、巻数が百八十余巻あって、いづれも学問する者は常に傍らから離されぬもので、一部一冊として人の心を打たないものはありません。さてこの先生は享和元年九月に享年七十二才でお亡くなりになられました。

そもそも中古に儒教・仏教の道が渡つてきて以来、世の人々の心がその風に移つてしまい、古道の心はおろそかになつて、次第に世が乱れるに従つて、古の道は絶えたやうになりました。足利将軍が天下を治めた頃は、真に乱世の極みでありました。織田信長公、豊臣秀吉公と次々に出られて、大きく悪弊を直されて、天下の人はほぼその威勢に服しましたものの、なお人心は穏やかにならないところに、徳川家康公が武徳を持つて天下を治められ、その仁徳が行き渡らないところはなく、人々は忠孝の道を心得、尊内卑外の旨をわきまえて、次々古に帰つていく中にも、世を治められるには古道を学ぶべき事が第一であることを思ひ召されて、天下に命ぜられ、古書をお求め遊ばされ、緊要の書などはことごとく書写を命じられ、京都にも、江戸にも、駿府にも置いておられたのです。

これらのことはその頃の記録を拝見いたせば明らかです。さて其の多く集めさせた古書類を尾張の源敬公に預けられました。源敬公はこれによつて、『神祇宝典』、『類集日本紀』などといふ書が撰ばれました。

又水戸の源義公はそのお志を継がれ、有用な書をお撰びになられたことは先に申したとおりであります。これにより世に広まり、この学問を学ぶ人がだんだんと出た中に、身分は下ながら、荷多宿禰羽倉東萬翁、加茂縣主岡部馬淵翁、平阿曽美本居宣長翁、この三人の大人たちなど、次々に励み学ばれ、其の門人も多く、今やこのやうに真つ盛りとなられ、我輩に至るまで太平の御徳化を蒙つて、心豊かに古を学びつかまつることとなつたことは、ありがたしとも、尊しとも、讃える言葉もないのです。

なほ、これらのこととは別に、詳しく記したものがありますが、ここでは駆け足で話すために、概略のまた概略を申すのです。

 

「古道学のよりどころ」

さて、私の説く道の主旨は、何をより所とするかといへば、古の事実を記してお伝へされた、朝廷の正しい書物に基づくもので、真の道といふものは事実の上に具はつてゐるものです。それなのに、とかく世の学者どもは、ことごとく教訓といふのを、書き表した書物でなければ道は得られないものと思つてゐる者が多いのです。これはたいへんに心得違ひのことで、教へと言ふものは事実よりたいへんに低いものです。その訳は事実があれば教へはいらず、道の事実が無い故に教へということがおこるのです。唐の『老子』といふ書にも、「大道すたれて仁義あり」と申したのはここを見抜いた言葉です。

ことに教へといふものは人の心には親しく沁みないもので、たとへば武士を励ますのに「戦に出たからには先駆けせよ、人に後れるな」と書いた書物を見せるよりは、古の勇士達の、人に先立ち勇猛果敢に闘い、高名をなした事実の戦記物を見せた方が、深く心に沁み込んで、私もいざ事があれば、昔の誰々のやうに、あつぱれにやつて見せようという、勇猛心が奮ひ起こります。「先駆けせよ遅れをとるな」といふ教えでは、そこまでは心をふり起こさないのです。

また、最近では「主君の仇は討つべきものだ」といふ教へを聞くよりは、大石内蔵助はじめ四十七人の義士が千辛万苦の難儀をして、主君朝野内匠頭殿の仇、吉良上野介殿を討つた実の話が身にしみじみと、髪も逆立ち、涙もこぼれるほどに、心に深く沁みるのです。

これは誰でも心に覚えがありそうなもので、特に教へといふものは、その人の心のありさまや人となりがよからぬ者が言つた教訓でも、書物として残してあり、如何にももつともらしくみえるのでものです。

唐の教えの書物といふものにはこれがけしからずに多いのです。あるものには、主君を殺して国を奪つた者の教へや言葉にさえ、金科玉条と言つて、玉とも金とも言へるやうにに、もつともらしく書いてあります。しかしながらその本当の行ひを見れば、主君殺しの賊であるからにして、もつともらしく言つている事柄は、みな空言と言ふものです。実が無く、その書き連ねたる所ばかりが立派では、それは山売りの能書きを見たやうなものです。

これらの訳を夢にも知らず、この教への書物でなければ道は得られない、教科書としてなくてはならないと思つて、世の常の学者や道学者などといふ輩が、そればかり唱へてゐることは片腹痛いのです。

唐でこれらの訳をよく心得たのは孔子一人のやうです。その言葉とは、「孔子が思ふには、人を教へるのに、それはそうするものではない、これはこうするものだといふように、もつともらしき教へを書いて人を諭そうと思ひますけれども、それでは人の心に入りません。だから、それよりはこれを、人が行つた事実を書き著して見せるほど、深く懇切丁寧に、最も明らかに人の心に染みることはない」といふのです。

このやうな心ゆえに、孔子は教への書としては一部一冊も作らず、ただ『春秋』と伝記録を調べ直して、誰それはこのやうな悪行があつた。誰それはこのような善行があつたといふことをありのままに記して、其の記録を読めば、自づから其の中に、しかと悪を懲らし、善を勧めることを、人が気がつかないやうに書き取つたものです。

実に孔子の生涯に渡る成果と言ふのはこの『春秋』であります。それ故に「私の志は『春秋』にあり、また我を知る者はただ『春秋』であり、我を裁くのはただ『春秋』である」と申したのです。これは私が存分に志を込めて記した書物は『春秋』なのであり、この『春秋』が世に伝へわたり、後の人がこれを見て、いかにも孔子は道をわきまえた人だと知ることが出来るのが『春秋』なのです。また国家の君主にしろ、主君殺しは主君殺し、親殺しは親殺しとありのままに記したために、これは孔子は遠慮がないと。後世の人が私を罪に陥れるのもこの『春秋』であるという意味です。

これほどに心を込めて書いた『春秋』だから、大変に実のあるもので、この心が良く見えるのはこの書を越えるものがないからなのです。しかしながら大方の世間の儒者どもが、儒教の書の上でも、このように確かな教へがあるのも知らず、ただ単に屁理屈の教訓を書いてゐるのは、己が本尊とする孔子の本意を会得もせず、『春秋』をよく読まないから誤るのです。これでは真の道といふものは教訓の書からではその旨みが知ることが出来ず、その書物が事実の物でなくては、真意は得られないのだといふことが理解いただけると思ひます。続く

 

防共新聞1150号(平成23年1月号より)より

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