【現代訳】古道大意下巻その三①続

オホクニヌシ

さて イザナギ・イザナミの二柱の神様が、始め天ッ神の勅命をお受けなされて、オノゴロ島へ下りて、大八島国を次々に御生みあそばしたことを、このやうにかいつまんで百分の一を申したのでは、事実は分からず、わずかばかりの年数のやうにも聞こえますけれども、神の御寿命は、はなはだ久遠と言つて長いので、実は計り知れないことなのです。それ程年数が積もつたことではあるけれども、なほこの時までも未だちやんと我が国が出来終はつてはゐないのです。しかしながら種々の神神を、御生み置きなされたのですから、だんだんとその子孫が増へていきました。

その中でも スサノオノカミのお孫が大変に勢いがあつて、特に オオナムジノカミと申すのははなはだ勝れた神様で、ご兄弟が八十柱おられました。始めはこのご兄弟の神々のために、あれこれとお難儀なされましたけれども、夜見の国にをられる スサノオノカミのお計らいによつて、ついにその多くの神神をお従いなされて、すなわちこの我が国をお治められました。又の名を オオクニヌシノカミ(大国主)申し上げるのも、この我が国をお治めなされたからです。御子たちも多くをられて、その中でも第一が コトシロヌシノカミと申し上げ、神祇官の八神の一方です。又 アジスキタカヒコネノカミ、これは タカカモノカミでございます。又 タケミナカタノミコトと申すのは信濃の諏訪におる神様で、いずれの神様もお威勢が強かつたのです。

さてこの オオクニヌシノミコトはお名前を数多くお持ちなされたために、 オオナモチノカミとも申しますので、 オオナモチが転じて オオナムジと言うようになったものです。さて オオナムジノカミが「八尋の矛」と申す厳めしい「矛」をおつきなされて、 スクナヒコノカミとお力を合はせて、この我が国を経営なされ、イザナギ・イザナミノカミの、なし残された事どもを大いに片づけられたのです。なおまたクスリやマジナイの道も、この二柱の神のお始めなされたことです。これについては「医道の講説」の時に申し上げるつもりです。

さてここに 天照御大神は、 イザナギノカミの命のまゝに「天」の君としてをられて、 タカミムスビノカミ・カミムスビノカミとともに、「天」のことは申すまでもないことで、天の下の事にも、全ての隅々まで、お恵みをかけられました。

そして仰せられるには、葦原の中ッ国は、我が御子が治めるべき国であると仰せられ、その御子神の オシホミミノミコトへみことのりがあつて、この国を治めよと仰せられたのです。

この アメノオシホミミノミコトと申しますのは、以前 スサノオノミコトと 天照御大神とが、玉と剣とを以てお誓ひなされました。世の神道学者などが 「剣玉の誓い」と言つて、例の秘事口伝と言ひ騒ぐのはこのことです。その誓ひの上に御生まれになつた神様で、則ち タカミムスビノカミの御娘、 トヨアキツシヒメノミコトの御子、タマヨリヒメノミコトを御配偶なされ、その御生みなされた御子の御名をニニギノミコトと申し上げるのです。

このやうな訳ですから、この ニニギノミコトは 天照大御神の御正統なお孫で、タカミムスビノカミには御ヒコ孫に当たります。そのためにこのニニギノミコトを 皇孫命と申し上げます。又、天孫と書くのも同じことです。

さて以上の通り、我が国は、彼の御威勢の強いオオナムジノカミのお治めになっているところへ、これより上がない 天照大御神、タカミムスビノカミの御意とは申しながらも、別格に君を天下しあそばしたことについては、ひととほりの訳では参らないのです。天において、あの大祓の詞、俗に言ふ中臣の祓にもあるとほり、 八百万の神達を、神集ひに御つどいあそばして、いろゝゝと御評議があつたのです。

ところが ココトムスビノカミという神の御子に オモイカネノカミと言ふ神がをられて、この神は大変に思慮深い神で、簡単に申せばお知恵の優れた神であるために、 アメノホヒノミコトを使はしてお尋ねになつたのです。この ホヒノミコトも、実は 天照御大神の御子で、堪忍強く御辛抱なされ、事を為し遂げる御性格の神様であつたために、彼の御勢いの強い オオナムチノカミの御心が和むやう、御納得されるやう、かれこれと手をつくされました。それが三年程もかかつたと申すのです。

ここで、またまた御評議があつて、 アメワカヒコを御下しなされ、武威をもつて オオナムジノカミが御承知なされるようにと使はせましたが、アメワカヒコは却つて オオナムジノカミの御娘の下照姫を娶つて、自分がこの国を治めようと構へて、八年程も御返事をされなかつたのです。それだけではなく、天ッ神より御催促の御使いに遣はされた キジシナナキノメと申す者を射殺しなどしたのです。

ここで彼の名高い タケミカヅチノオノカミ、フツヌシノカミと申す、武勇絶倫と類なく勇ましい神の二柱を天下しなされて、彼の ホヒノミコトの オオナムジノカミを御和みなさるのと、 タケミカヅツノオノカミと フツヌシノカミの武勇とで、とうとう オオナムジノカミは御承知なされ、ついにこの国をニニギノミコトへ禅譲なされることになりました。

出雲の国の大社

そこで仰せられるには、「出雲の国に 天皇の宮殿同様に宮殿を造つて、私を御祭り下さるならば、そこに鎮まり居つて、幽事と申して、世のありとあらゆる事の、隠れて現在の目に見えない事も主宰いたしませう。又 ニニギノミコトは長くこの御国を御治めなられて、天の下の顕事と申して、世の中の目に見える事どもを、御治めあそばせ」と仰せられたのです。そしてあの天下を経営なされる時におつきあそばした「八尋の矛」を御譲りなされて、「この矛は我が、天の下を治めたる功のある矛ゆえに、 皇孫命がこれを以て国を御治めあそばしたならば、必ずや安らかに治まらう」と仰せられたのです。

そこで タカミムスビノカミ 、 天照大御神もごもつともとおぼしめされて、その仰せの通りに出雲の国の多芸志の小浜といふ所に、非常に大きな宮殿をお造りなされて、そこに オオクニヌシノカミは長く御鎮座なされたのです。この宮殿を杵築の宮と申して、則ち今の出雲の大社のことです。又あの アメノホノミコトは、 オオクニヌシノカミを御和みなされた、いはばお気に入りですから、お使ひ神となされたのです。則ち今の「国造」と言うのは、正確には「国のミヤツコ」と申すべきであつて、この アメノホノミコトの子孫に、連綿と相続されましたので、なかなか以て一通りの家柄ではないのです。

以上の訳ですから、今の現実にも、世の中の幽事と申して、隠れて目に見えずに行はれることは、全てが出雲大社の御計らいであることは、議論のないところです。

『 玉鉾百首』に「顕の事は 大君、幽事は オオクニヌシノカミの御ココロ」と詠まれたのはこの意味で、俗の諺に「十月は神神が、出雲の大社へお集まりなさる」とか、或いは「縁ムスビをなされる」などといふが、これらはたいへんに古くから世間で申してゐることです。

それを古い学者達が、あれこれと理屈を言つて無いことにしたがりますけれども、篤胤がひそかに思ふには、「天もの言はず、人をして言はしめる」と言ふやうに、神の御心として、世にこのやうに言ひふらしたる事で、誠にこの通りに違ひないと思はされる事が、今の世にも大分あるのです。

この神は、世の人が特別によくお奉りしなければならない神様です。なほこの神様の御徳を、人たる者は、おろそかに思ふべきではない理由は、『古史傳』や『玉襷』と申す別途の本に詳しく書き置いてあります。  続く

防共新聞一一五五号(平成二十四年四月一日)より

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