【現代訳】古道大意下巻その三②

皇孫ニニギノミコト

さて、まづこのやうに、オオナムジノカミは御鎮まりなされましたので、天照大御神、タカミムスビの神の御心として、いよいよ皇孫ニニギノミコトを、この国に御下しなされるに当たつて、天照大御神はお手にいはゆる「三種の神器」、すなはち草薙の御剣、八尺瓊の曲玉、それに伊勢の五十鈴の宮に 天照大御神の御霊代と斎き奉る御鏡を御捧げあそばして、ニニギノミコトに仰せられました。

「豊葦原の瑞穂の国は、我が子孫が次々と治めるべき地なり。今汝皇孫ニニギノミコトよ、行つて治めよ。又この御鏡は、我が子孫代々に、我が御霊として、我を見るが如く斎き奉りて、御同殿に置きてくれよ。宝祚の栄えまさんこと、天地無窮なるべし」と言を仰せられました。

また随行された神々は中臣藤原の御先祖の神、則ち河内の国枚岡に鎮まりましますアマノコヤネノミコト、忌部家の御先祖アマノフトダマノミコトを始めとして五柱、また別にニニギノミコトの御守護の神となられるために、その御霊をもお添いなされた神神は、アメノタジカラオノカミ、これは信州戸隠、またトヨウケヒメノカミ、これは上は天使さまより下々までの、朝夕の食物を、満腹になるまで安らかに食べられるやうにお守りなされる神様で、すなわち伊勢の外宮に鎮まる神様です。

又諸々の災い事の四方四隅と言つてヨモヨスミより入つて来るのを、入れぬぞとお守りなされるご門の神、すなわち門をお守りなされるアマノイワトワケノカミ。

また何ごとによらず思慮深くて、考へつくことのすばらしいアマノオモイカネノカミの御霊などです。

さて、このやうにいづれもいづれも卓越した神神をお供にされ、天の浮橋に乗つて、あの大祓の詞、俗に中臣の祓いという文にも「天の八重雲」を稜威の道別に道別」とある通り、八重九重に、たなびき重なる天雲を掻き分け掻き分け、アマノオシヒノミコトの神が、天のイワユギといふものを背負ひなされて、太刀を差し、また天のハジ弓といふ弓をお持ちなされ、天のマカゴヤといふ御矢を脇にはさみ持ち、皇孫命の前にお立ちなされて、天降りなされたのです。

さて、その天降りなされた所が、日向の国高千穂峰で、この時第一にお出迎へなされたこの国の神がサザビコノオオカミです。このお下りなされた時、空が暗くて物の色も分からなかつたといはれます。そこで稲穂を籾となされて、四方へお投げ散らされたところで、空も晴れたと言ひます。

そこでこの山のことを今は霧山とも霧島山とも言つて、西の嶺は大隅の国、ソオノ郡、東の嶺は日向の国、諸縣郡で、この山は不思議な事柄が多く、その中でも、今も神代のいはれによつて、天然の稲が生えると言はれてゐます。

また時として霧の深く立つことがあると言ふのです。ところで神代の事跡と言つて、いはゆる先達の者が人に教へるには、手に稲穂を持つて登り、もしこの霧が起こつたときには、それで祓ひながら登れば暫くすれば空は晴れて、事故もなく登ることが出来ると言はれています。

天の浮橋

 

さて、この天降りの時に、お乗りなされたといふ、「天の浮橋」といふのは、天と地との間を行き来する物で、空に浮かぶ物であるから浮橋といふのです。この世の物では、船と同様の物ですから「天の磐船」とも言ひます。

初めイザナギ・イザナミの神が「天の浮橋」に御立ちなされて、沼矛で、国をお探りなされたと言れはるのも同じ物です。この「浮橋」に乗るには高いところから乗り込むものとみえて、今、国内のあちこちにある梯立といふのは、そのために神がお造りなされた遺跡と思はれます。それはまず播磨の国の風土記に、賀古の郡盆気の里という所にこの梯立のことがあります。

又丹後の国の風土記にも、与謝郡速石の里と言ふところの海に橋立といふものがあります。是は大変に大きなもので、長さが二千二百二十九丈(約六.八キロ㍍)、幅が九丈十丈(約三〇㍍)、最も広い所は二十丈(約二〇㍍)位もあると書いてあります。これは今の人もよく知つてゐて、見に行く人もたくさんをります。篤胤が知つている人にも見てきた人が数人有つて、みな恐れ入つて、とかく強弁したがる人も愕然とするのです。

そもそもこの「浮橋」での往来は、イザナギ・イザナミの二柱の神が、大空を乗るために御造りなされたのが始めであつて、この後は、他の神々の御往来にも必ず使はれました。

最もその中でも天照大御神を天に御送り上げなさる時は、「天の御柱」を以て御上げなされたとありますので、これは別物である上に、この頃までは「天地の相去ることが遠からず」ともあつて、近くて容易に聞こえます。

しかし、今ニニギノミコトの浮橋に乗つて天降りなされる様子は、八重棚雲を「稜威の道別に道別」などがあつて、以前よりは、ことのほかに遠いように聞こへるのです。

さて、この天降りなされて後、ますます天日は上に相遠ざかるために、この浮橋の往来も止み、その梯立どもも、ついには地に倒れ伏したのが、則ち今、播磨や丹後にあるのだと言ふことです。

日・地・月の成就

このやうにして天日は上に上って、大虚空の真ん中にきちんと位を定めて、外へは動くことなく、一つの所に在つて、右まわりにグルリとめぐつてゐる。これが天日のありさまです。

さて、また大地は、その天日を中心として、それより遙かに遠い大空を、右まわりに漂つて行き、大まわりに一周するのが一年です。ただしこの大まわりの間に、自己のめぐりがあつて、天日に向かふ時は昼となり、背向く時は夜となるのです。この一まわりを一日といふのです。

このやうにめぐること三百六十余転する間に、大空を行き、天日を大まわりして、また元の所に帰る。これを一年と言ひます。

さて、また夜見の国もこの時きり離れて月として見え、大地の外を周行して、満ち欠けをなして、二十九日半余りかけて元の所に帰ります。これを一月と言ひます。これがすなわち、天日、大地、月夜見が今のやうに成り整つたことの大略です。

このことを身近なことで例へれば、服部中庸が申したとほり、稚児の臍の緒と袍衣とが繋がってゐるやうに、また草木の実が熟すれば、果実のヘタから落ちるやうなもので、これただにその有様が似てゐるばかりではなく、その道理までが全く同じ事です。

なぜかと申せば、ニニギノミコトの天より御降りなされたのは、稚児が生まれ出たやうなものです。

またイザナギ・イザナミ二柱の大神のお生まれなされて、日の神をお生まれなされた、この我が国の君のお定まりあそばして、天降りなされて、お治め遊ばすのは、天地国土のことが完全に成就したものであり、これは草木の実がなつて熟したのと全く同じ道理です。

我が国のあり所と外国

またその始め「一つの物」より、天と萌え上がつた頃は、まさしく天と上下相反する所が我が国であるめに、すなわち我が国の有り所は、この大地の頂上であることが分かるのです。

また諸々の外国の初めについては古伝説に、「所々の小島は、皆これ潮の泡の凝り固まつたものである」とあることから考へるに、イザナギ・イザナミの二柱の神が大八島の国をお生みなされて、国土と海水とが段々と分かれるに従つて、ここかしこと、潮の泡が自づから凝り固まつて、泥土がより集まつて、大きくも小さくも国となつたもので、我が国に比べては、遙かに後れて出来たのであることをも知つていただきたいのです。 これもみな、ミムスビの神の、ムスビのお徳によつて出来たことには、変はりはありませんけれども、外国は二柱の神がお生みなされたのではありません。また日の神のご本国でないのですから、我が国とは初めより尊卑美悪の差別も、ここでよく分かるのです。これを思うにも、我が国はこれ天地の根帯で、諸々の事物がことごとく万国に優れている理由も、また諸々の外国の、何もかもが我が国に劣つてゐることも、考へ知つておくのがよろしいのです。 このやうなわけですから、諸々の外国にたまたま残つてゐる古伝説も、我が国のように詳しくは伝はらないはづです。これは例えば京に有つたことを、国々の田舎に語り伝へたやうなもので、元の京ほどに確かでないことももつともなことなのです。

我が国の古伝説の片端を訛つて言ひ伝へて、その国のことのやうに申してゐるのは、これも都に有つたことを遠い田舎で聞き伝へて、年数が経るに従つて、元を失つてしまい、そこに元々あつたことのやうに、語り伝へたやうなものです。とつくりと、このあたりの訳を考へて、我が国の天子さまは、実に万国を治めるべき、真の天子としてをられることは明らかで尊いことと申し奉るも、なかなか世の常のことではないのです。 続く

防共新聞一一五六号(平成二十四年七月一日)より

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