國讓りの神話から見る國の在り方とは(季刊・大吼 令和五年夏季号より) 編輯員 岡 學歩

 今囘の主題である「大國主の國讓りより國體が明確となつた事」とは昭和十二年に編纂された「國體の本義」に於て、天壤無窮の神敕に就いて言及する際に「我が國體は確立」と記してゐる事を根據にしてゐると考へる。 

 天壤無窮の神敕は天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝命が天孫降臨をされる際に天照大御神より授け給はつた神敕である。それは、大國主神を中心とした出雲の神々が恭順した證であり、天壤無窮の神敕の本文である「豐葦原の千五百秋の瑞穗の國は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行矣 寶祚の隆えまさむこと、當に天壤と窮りなかるべし」が正に國の在り方を示してゐるのである。つまり國讓りの神話での一連のやり取りの中に、國の在り方と日本人の在り方、思想、精神性を學ぶことができる事を示してゐる。  

 須佐之男命の系譜である大國主神が治めてゐる葦原中國に對し、高天原は統治權の交代を求めてゐる。統治に於る正當性や血統などから長となるは天照大御神の御子であることは理解できても、現場で實務を擔つてゐた大國主神にとつて簡單に讓り渡せるものではない事は想像に難くない。それでは國讓りに對し否定や抵抗があつたかと云ふと結果から見ればさうではない。須佐之男命が大國主神にしたやうに統治に値する器量があるかどうかを試したのではないだらうか。 

 葦原中國を統治すると云ふ事は非常に困難な事であつたと考へられる。天照大御神から天降りを命じられた正勝吾勝々速日天之忍穗耳命は天浮橋から下界を覗き「葦原中國は大變騒がしく、手に負へない」と報告してゐる程である。實際に遣はされた天之菩卑能命は大國主の家來となり、二番目に遣はされた天若日子は大國主神の娘と結婚し、自身が葦原中國を統治しようと企てた。高天原より遣はされた二柱の神が大國主神の側についたことから、葦原中國の統治が如何に難しく、その状態を統治する大國主神の存在が如何に大きかつたのか想像される。三番目に建御雷之男神か遣はされるのであるが、ここで初めて大國主神との交渉の描冩がある。大國主神は交渉の相手に自身の子である事代主神と建御名方神を指名する。大國主神が直接交渉をするのではなく御子に交渉をするやう指示をした。この指名には必ず意味がある。古事記の描冩が多い建御名方神には力比べの描冩がある。ここから軍事を司る武官であつたとわかる。建御名方神が武官ならば、事代主神は政治を司る文官であるのが自然である。つまり大國主神は國の實務を擔つてゐる文官と武官に意見を仰いだのである。また大國主神の子は古事記の記載に百八十柱とある。百八十柱の内の二柱が國の行末の決定權を有してゐると考へれば、事代主神、建御名方神が葦原中國にとつてどれだけ重要な役割を擔つてゐたか想像できる。 

 それでは建御雷之男神と事代主神、建御名方神の交渉は具體的にどのやうな意味を持つてゐたのかを考へていく。先づ、建御雷之男神と事代主神の交渉はあつさりと統治權は高天原にある事を認め、國讓りを承諾してゐる。描冩が無いので想像の域をでないが、高天原と葦原中國で統治權を爭ふ事が國の爲に有益ではないと判斷をしたのではないだらうか。 

 次に、建御雷之男神と建御名方神の交渉は「力比べ」と云ふ形での軍事力の見せあいであつたと考へられる。結果は建御名方神の敗けであり、大國主神、事代主神の言葉に背かないと誓つてゐる。事代主神と建御名方神の結果を受け、大國主神は國讓りを承諾する。その代はりに宮殿の造設と事代主神の政治參加を要求してゐる。 

 この一連の流れに大國主神の強かさと感じざるを得ない。大國主神からすれば葦原中國の民を守らねばならない。現状の生活を維持し今後より豐かにしていく責任を背負つてゐる。私は大國主神が、「高天原の要求は理解できるが、國を任せる事ができるだけの力があるか確認をしなければならない。そして國を讓つた後も民を守れるやうにしなければならない」と考へてゐたのではと推測してゐる。地方には從屬してゐない豪族がをり、國を軍事的に守り、統治していくためには軍事力を示す必要があつたはずである。だからこそ高天原の有する軍事力の確認は必須であり、葦原中國の軍事力に劣るやうではならない爲、建御名方神と交渉させたと考へられる。また、高天原にしても軍事力を示さねばならない事は認識してゐたと思はれる。建御名方神との交渉は高天原と葦原中國の兩者にとつて利害が一致してゐたのだらう。次に國を讓つた後に民を守る爲に、政治的な影響力を得る交渉をしてゐる。大國主神は「百八十柱の子神が事代主神に從ひ天津神に背かない」と述べてゐる事から、事代主神が國津神の代表であり意見の取りまとめ役であるとともに、高天原の意嚮を傳へる役割である事を認めさせる内容である。つまり國津神の代表が政治參加することで、統治體制に變更があつても實際の現場の意見を中樞に屆けることで民の生活を民の生活を守ることができると考へたのではないだらうか。 

 以上の事から、大國主神は國讓りに於て最初から對立關係となるやうな事態は望んでゐなかつたと考へられる。寧ろ、對立することで國が荒れ、國そのものが危うくなる事も豫想してゐたのではないだらうか。一方、建御雷之男神にしても大國主神と同樣に未來を見据ゑてゐたのではないだらうか。軍事的な衝突により高天原、葦原中國の軍事力が削られることは今後の統治體制にとつて有益ではない。また、新しい統治下で國津神を纏める事ができなければ國讓り後に體制が搖らいでしまふ。そこで、國津神の纏め役を擔ふ事代主神の政治參加を認める重要な判斷を下してゐる。この事から建御雷之男神が文武に秀でた存在であるとわかる。建御雷之男神の判斷は高天原の器量を示すとともに、大國主神に政治體制を高天原に讓り、その體制下で統治でこそ國が豐かになると判斷し國讓りが成されたのだと考へられる。  

 このやうに支配や侵掠ではなく、互ひの事を理解し個の利益ではなく國全體にとつて有益であることを取り入れるために認め合ふ樣子が記されてゐる。非常に柔軟で汎用性の高い考へ方である一方、相手に取り込まれてしまふ危うさもある。何を一番に尊重するべきなのかを明確にすることで機能的に優れたる點は取り入れていくが、思想的に取り込まれることがないやうにしてゐる。日本と云ふ國とは、日本人とはと云ふ問ひに國讓りの神話は一本の軸を示したのである。 

 それでは國讓りの神話、天壤無窮の神敕から得た學びを活かす爲に今我々にできる事は何だらうか。明治二十三年十月三十日、明治天皇により「教育に關する敕語」(以下教育敕語)が渙發された。教育敕語は日本人の倫理・道徳に就いての教育指針である。明治神宮のホームページに教育敕語の説明が記載されてゐるので一部引用させて戴く、「敕語には、日本人が祖先から受け繼いできた豐かな感性と美徳が表され、人が生きていくべき上で心がけるべき徳目が簡潔に述べられてゐました…」この「日本人が祖先から受け繼いできた豐かな感性と美徳」は血縁の祖先も含まれるだらうが、日本と云ふ國土に住まふ日本人として大きく捉へた際に遡れるだけ遡れば必ず古事記にある日本の成り立ちに行きつく。譬へ、古事記を知らず、教育敕語を目にしたことがない者であつても日本の風土、風習で生活してゐる以上は思想・倫理・道徳に於て必ず影響を受けてゐる。現在は、樣々な考へ方に簡單に觸れる事ができる。自身にとつて都合の良い考へだけを都合よく解釋し、わかつた風でゐる個人主義が多くなつてゐるのではないだらうか。現代人は百年前に比べ確實に賢くなつたであらう。情報を得る手段も多く智識も豐富である。しかし、考へる力はそれに追ひついてゐるだらうか。情報や智識は持つてゐるだけでは意味がない。情報や智識から何が日本人にとつて大切な事なのか考へなければならない。故に古事記、教育敕語を目にしたことがないでは次の段階に進めないと考へてゐる。 

 日本と云ふ國の在り方を維持しながら發展していく爲に、古事記を讀み、教育敕語の十二の徳目を實踐することが望まれる。我々の國民の殆どが國の在り方に大きく影響する事柄に關はる機會はないだらう。しかし、その機會がないと斷言できる事ではない。例え直接的ではなくとも、國體に基づいた思考と行動をする事は未來の日本の爲になると考へてゐる。 

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