惟神の道は世界平和にどう寄與できるか 編集員 岡 學歩

 宗教が全世界を平和にする事ができるかと云ふ問ひがあるとしたら否と答へる。それは同じ考へ方のコミュニティであれば問題がないが、別の考へ方を持つコミュニティとぶつかりあつた際に宗教が爭ひの火種になるからである。これは個人に於ても同じである。同じ考へ方、似た考へ方をする人とは馬が合ひ、別の考へ方をする人とは仲良くなれないと云ふことは社會生活を營む上で誰もが經驗をしてゐる。この考へ方と云ふものは、赤の他人と親子以上の關係を結ぶこともあれば、肉親と關係を斷つこともあるほど影響力があるのである。それ故に、人間が考へる力を持つてゐる以上は全世界が平和になると云ふ事は極めて難しい課題である。しかし、考へる力があるからこそ生活が豐かになつた。今の私たちがあるのは先人たちが考へ、生活を豐かにし文化・經濟を發展させてきたおかげである。その背景に考へ方の違ひによる爭ひは大小樣々なものがあつたはずだ。 

 爭ひは發展の爲に必要な一面を持つてゐるため完全に否定することはできない。言ひ換へれば發展のために競ひ合ふ爭ひはあつてもよいのである。競爭は勝者と敗者がゐる。富める者、貧しい者、權力の有無など、現状に滿足してゐる者がゐれば、不滿を抱へてゐる者もゐる。不滿を抱へてゐる者が滿足できるやうになると、別の不滿を抱へた者が出てくる。私たちはこの循環の中で生きてゐるのだが、どこまでが平和な爭ひで、どこからが平和ではない爭ひなのだらうか? 

 辭書を引くと「平和とは戰爭がなく、世が穩やかな状態である事」とある。ここから解釋するに、戰爭のない期間の事を平和と云ふ名稱で表してゐる。先も述べたが爭ひは常にある。宗教・政治・經濟・文化いたるところで考へ方の違ひがあることは仕方のない事である。しかし考へ方の違ひが戰爭にまで至つた時點で平和ではなくなる。考へ方の違ひによる小さな爭ひは個人の考への主張から、徐々に規模が大きくなり組織や民族と集團同士の對立となり、最大規模が國や國同士の聯盟による戰爭だ。個人や家族單位の考へ方の違ひによるものは喧嘩。殺し合ひに發展しても事件。一定數の集團になるとデモ。デモの中で武力行使となり死者がでると一氣に戰爭になりかねない。單位が小さくとも火種は結局同じであると私は考へてゐる。 

 宗教・政治・經濟・文化の考へ方の違ひの火種はいくつもあるが、ここからは宗教の側面から平和が實現可能なのかを考察する。 

 世界には數多くの宗教が存在する。それは宗教の數だけ考へ方があると云ふことだ。違ふ考へ方が數多くあれば戰爭の火種もそれだけ多くなる。宗教には平和を説く教へが多い。裏を返せば平和ではないから平和を目標するのだらう。「この宗教の、この神樣を信じれば皆が幸せになりこの世に平和が訪れる」と云ふ意味合ひの文言は定番と言つてもよい。確かに全世界の人間が一つの考へ方をするのであれば平和になることも可能であらう。冒頭でも述べたやうに同じコミュニティで同じ考へ方であれば問題は起こりにくい。しかし現實は違ふ。宗教の對立は戰爭にまで發展してしいる。また、同じ宗教であつても神樣・教祖などが示した教への解釋の違ひでいくつもの宗派ができてゐる。結局ここでも考へ方の違ひがあるのである。 

 人間はどこまで行つても統一した考へになることはできない。それは致し方ないことである。それは土地の氣候が人間の力では變えられないやうに、その土地の氣候で生きてゐる人間が長い年月をかけて身に着けた宗教・文化・風習などの考へ方は容易には變えられないのだから。 

 人間の考へ方は容易には變えられない。しかも自分たちの考へ方で不自由なく暮らしてゐたら、自分たちの考へ方が一番良いから他の人にも傳へようと發想してしまふ。かうなつてしまつては考へ方の違ひの對立を招くだけである。宗教には布教と云ふものがある。布教は宗教の教へを廣めるための行爲である。考へ方の違ひが爭ひの火種になるならば、布教が爭ひの種を蒔いてゐるとも考へられる。人間は考へを容易に變へることはできないのだから布教も容易ではないことが想像できる。勿論布教により考へを改める者もゐるだらうが、相手の考へを尊重せず蔑ろに扱ふやうな事があれば爭ひも起こる。つまり宗教により全世界が平和になることはないと云ふ冒頭の結論になるのである。 

 それでは私たちはどうするべきなのか?それは正に現代に求められる多樣性の理解と云ふことであらう。これまで宗教は特定せずに一般的に宗教と呼ばれてゐるモノの特徴を批判的に考察した。ここで、日本の宗教觀に就いても考察したい。日本の宗教觀は世界から見て異質である。宗教信仰の意識調査では調査對象者全體の三割程度しか信仰を自覺してゐない。それは宗教への意識が極めて薄いことを意味してゐる。しかし、日本人は一本筋の通つた思想をきちんと持つてゐる。その思想・考へ方は神道に由來する。神道が宗教か否かを問ひ始めると難しい問題である。信仰などの側面から見ると宗教と同樣の機能を有してゐることは間違ひない。だが、少なくとも誰かの「教へ」を廣めると云ふものではない。更に言ふなれば神道と云ふ言葉も日本人の信仰を名稱化したものであり、惟神の道と云ふ概念そのものが本質となる。解釋はそれぞれであるが、私は惟神の道を「自分自身が正しい事とは何かを考へ、正しくあらうとすること」と考へてゐる。勿論、そこには經典や聖書のやうな指針や教へはない。生きてゐる中で學んだこと經驗したことから自分なりの正しさを見つけていく。その正しさとは日本と云ふ風土・文化・歴史の中で獲得されていくので一定の共通性があるだろ。共通點はあつても、人それぞれ多樣な正しさがある中で自分の正しいは他者の正しいと相容れない事がある。さうなれば爭ひが起こることは仕方のない事なのだ。 

 それは歴史を振り返つてみても同樣である。尤も古くまで遡れば神武東征の物語であらう。かつて日本は數百の國からなつてをり神倭伊波禮毘古命が統一を果し大和朝廷を開く譯だが、全ての國が從順に從つた譯ではない。長髄彦の物語に見られるやうに爭ひはあつたのである。この爭ひも各々の正しさの考への違ひによるものである。長髄彦なりに正しい考へがあつたのかもしれない。 

 結局のところ爭ひが起こるのであれば、諸宗教と何が違ふのかと云ふことになつてしまふ。考へ方の違ひによる衝突と云ふ意味に於ては惟神の道も宗教と同じ性質を持つが、壓倒的に違ふ事は正しさはそれぞれが考へるものであつて「教へ」と云ふ指針を持たない事である。正しさは變化する。過去に良いとされてゐても、現在では惡いとされる。逆もまたしかり。その時々に合はせた柔軟な考へ方ができるのが惟神の道である。しかし宗教は、誰かが昔考へたことが全てであり他を認めない。この他を認めないと云ふ考へ方がとても暴力的であり平和から逸脱してゐる。 

 惟神の道の柔軟性は考へ方の違ふ者同士が共存できると云ふ點に於て宗教から一線を畫し、秀でてゐると私は捉へてゐる。例へば、日本の神樣は地域により樣々である。一方で古事記・日本書紀に見られる神樣も同じ場所で祀られてゐる。記紀に見られる神樣を祀ると云ふ事は大和朝廷の支配を受けてゐたと考へられる。しかし、土着の神樣も同じやうに祀つてゐた事から侵掠ではなく共存してゐた證據となる。時代が下り佛教、キリスト教など外來宗教が日本に入るやうになつてきても良いところは認め、取り入れた。受け入れる事ができない事に就いては一線引いて關はることで考へ方を共存させることができたのである。それ故にクリスマスを祝ひ、除夜の鐘を寺で打ち、神社に初詣へ行くと云ふことに違和感を覺えないのであらう。葬儀は佛式、結婚式は神式または教會と諸外國からみたら統一感のない樣子を理解することができない。これらはある意味では正しくあらうとした結果なのだらう。佛教の死に對する扱ひ方を取り入れ、教會結婚式は神の前で誓ふと云ふ行爲は神道に於る婚約にも通ずる。各々が持つ特徴や役割を私たちにとつて都合よく正しいものとして解釋することができるのである。 

 このやうに宗教の文化的な側面をうまく取り込むことで宗教を否定せず共存できてゐる。その一方で惟神の道から逸脱させられるやうな事がある場合は拒絶を示す。大化の改新、明治維新など國の指針に影響する思想は介入させない。また日本人の特徴としても同族意識や他と違ふと云ふ事を認めにくい傾向がある。部落、外國人、障碍者、男女など根強く差別意識はある。差別をしてゐると云ふ認識ですらないと云ふ事もある。日本人は多くが惟神の道を生きるための指針や基本としてゐるが古の時代から日本の風土・文化・風習で培はれた私たちが正しいと感じるものは當たり前すぎて認知してゐない。また、惟神の道に從つた自分の考へ方が優先されるが、その考へ方にとつて有益と思はれるものは分け隔てなく取り込める。一方で惟神の道に沿はない考へ方は拒絶する。日本人とはこのやうな傾向を持つた民族である。 

 爭ひはなくならないが戰爭までに發展させず平和に寄與するためには、自分の考へと相手の考へは違ふものであることを認識することである。相手も自分と同じやうに考へてくれる筈だと云ふ思考は期待外れや裏切りとなつてしまひ爭ひの種になる。自分の考へを理解して、相手の考へを尊重し、自分の考へを相手に強要しない、その上で有效な考へ方を取り込んでいくと云ふ方法しかできない。今の私たちでは考へ方の違ふ者同士は、互ひの不可侵な領域を見極め侵さない事、不可侵な領域がどのやうなものであるかを理解することが精一杯である。しかし、それができる唯一の思想が惟神の道である。 

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