宗教一考(編集員 岡 學歩)

宗教と云ふ言葉に對し受ける印象は樣々あると思ひます。本稿では私個人の宗教
と云ふ言葉をどのやうに捉へ考へてゐるかを傳へたいと思ひます。
 そもそも宗教とは何か?日本人は無宗教?宗教と聞くと樣々な疑問が浮かびま
す。この文章を書いてゐる私の考へ方は何かの影響を受けてゐます。それは日本
の風土でありその中に宗教の概念も含まれてゐると思ひます。日本の風土で暮ら
す一庶民の思想を言語化して參ります。
 
宗教と云ふ言葉への印象
 言葉とは生物です。過去と現在で意味が變はつてしまつたり、その時々の文化
や風潮で本義とは違ふ解釋で使用されることもあります。そのやうな言葉の中で
も特に思想や信仰に關はる言葉は相手に與へる印象の衝撃は非常に大きいと感じ
ます。特に宗教と云ふ言葉を見聞きした際に受ける印象は人それぞれではありま
す。日本の風土で暮らしてゐる多くの人々は宗教と云ふ言葉に對して良い印象を
持つてゐない傾向があると感じてゐます。背景には日本人の多くが宗教を信仰し
てゐると云ふ自覺が非常に稀薄であること、宗教と云ふ言葉を見聞きする際には
事件と絡む報道が多いと云ふことが舉げられるでせう。典型的な例がオウム眞理
教による地下鐵サリン事件で新興宗教は怖いと云ふ印象が人々に刷り込まれ、イ
スラム圈で起こつた戰爭の報道を見聞きした際の恐さだけが印象に殘つてしまつ
たと思はれます。そのため、自身の宗教への信仰が無いと云ふ事が肯定される風
潮になつたのではないでせうか?
 私自身は宗教と云ふ言葉に對して特別思ひ入れはありません。何かに非常に強
い信仰を持つてゐる自覺があるわけでもありません。むしろ、非常に強い信仰を
同じ日本人に見せられると距離を置きたくなる氣持ちを持つてゐます。しかし神
職や僧侶に對し嫌惡感を抱くことはありません。思ふに周圍の状況が見えなくな
るほど心醉し他者に迷惑をかけたり利己的な振る舞ひに對して良い印象を持てな
いのでせう。そのやうな心情となる背景に宗教團體の強引な勸誘・ねずみ講や詐
欺まがひの活動、宗教の對立による戰爭の報道など負の印象を受ける情報ばかり
が氾濫してゐるからと考へます。一方で宗教と云ふものはなにかと云ふ教育は受
けた記憶はありません。正しい情報も持たずに一方的に嫌だと思ふのは私自身が
報道や周圍の人の宗教への考へ方を見聞きして得た偏見であります。不快な感情
は傍若無人・利己的な行ひに對しての感情であり、宗教とは別物として考へる必
要があります。
 
宗教とは
 小學生が使ふ國語辭書で宗教と引くと「神や佛などを信じて、安心・幸福を得
ようとすること。また、その教へ。」とあります。私の考へではありますが日本
の風土で暮らす人々にとつて、信じると云ふことと、教へと云ふことが的を射て
ゐないため宗教と云ふ言葉を自分自身の生活の中に取り込まれた經驗として使へ
る言葉になつてゐないと思つてゐます。
宗教が生活の中に取り込まれた經驗となつてゐる例を示すと、キリスト教は洗禮
を受けて自覺的に神を信じ、教會で教へを受けます。日曜日には教會へ行くと云
ふことは歴史や文化として定着してゐます。その爲、宗教の説明に含まれる「信
じる・教へ」が經驗としてわかるため宗教と云ふ言葉に違和感を覺えることはな
いのでせう。
 日本人はどうかと云ふと、まづ何を信じてゐるのかを明確にすることができま
せん。教へとは學校教育となつてしまひます。その爲、私はこの考へを基に生き
てゐますと明言できないのです。しかし我々日本人にも「信じる・教へ」は確實
に存在してゐます。それは家族の存在です。私たちは何もわからない赤子のころ
から父母、祖父祖母など家族の考へ方において育てられます。そして家族の考へ
方は赤子にしてみれば絶對的に正しい教へになります。
 ではその家族は何を信じ、教へられてきてゐるのかと云ふと先祖の考へ方と云
ふことになります。これは信じるにしても、教へられるにしてもあまりにも當た
り前のことなので「信じる・教へ」の自覺がないのです。
 しかし、この家族の原理はすべての人間に當てはまります。先のキリスト教の
例で言つても洗禮を受け日曜禮拜に行くのは家族がさうしてゐるからです。キリ
スト教圈に住まふ人間がキリスト教であることを自覺してゐるのは家族がキリス
ト教の考へ方を信じ、教へられてゐるからです。
 この理屈で行くと、日本も家族は先祖の教へを信じ、教へられてゐるので先祖
を信仰すると云ふ形で宗教と呼べる形態は存在してゐると考へます。しかし家族
や先祖の教へを子どもに傳へることはあまりにも當然で有るとともに家族ごとに
考へ方は違ひます。故に日本人は宗教への信仰はないと言ふのでせう。
 
宗教がもたらす共同性
 同じ考へ方を共有できると非常に強い仲間意識が生まれます。先から例に出し
てゐるキリスト教で言へば多くの地域に信者がゐますが「私はキリスト教です」
と傳へるだけで概ね考へ方が同一のものであると云ふ共同性の認識ができます。
しかし日本の場合は特定の宗教や信仰を明言できないため言葉で共同性を認識す
ることは難しいです。それでも私たちは日本の風土で暮らす民族としての共同性
を感じ取ることができてゐます。もちろん世界の諸宗教の信者においても地域や
國による考への差異はあるでせう。人種の違ひや信仰そのものが違ふ事がありま
す。だからこそ言葉で共同性を示さねばならず、自然に感じ取ると云ふことはで
きなかつたのだと考へます。一方で日本は外界が海で圍まれてゐると云ふ特性や
概ね同じ季候であることから人種・文化・言語・考へ方が極端に違はないと云ふ
状態にあります。それ故に日本人と云ふだけで共同性を感じ取れるのでせう。し
かし日本國内であつても極端に違はないと云ふだけであつて違ひはあります。こ
こで宗教や信仰と云ふ形で言語化できないことで地域・文化・考へ方の差異を感
じてしまふ所謂カルチャーショックが起こるのです。共同性があると思つてゐた
のにもかかはらず考へ方が違ふことに氣が附くと、相容れないと云ふ感情は思ひ
のほか大きくなるのです。
 地域・文化・考へ方の違ひの最小單位は先の項目で述べたやうに家族でせう。
我が家の規則と他人の家の規則は違ひます。誰が決めたでもなく暗默の了解的に
順番が決まつてゐたり、何かしてはいけないと云ふ事はどの家庭にもあるでせう。
子どものころ友達の家に遊びに行つたら自分の家にはないルールがあつて驚いた
と云ふ經驗は誰にでもあるのではないでせうか?自分の家族の當たり前は、他の
家族の當たり前ではないと云ふ事です。では家族にある當たり前はどのやうにし
て成立していくのか?と云ふことですが、ここで風土・文化・歴史が影響してゐ
るのです。地域ごとに差は出てくるでせう。すこし大きな括りですが縣民性と言
ふとわかりやすいかもしれません。大人になつてから同郷の人に會ふと妙に親し
みを覺えると云ふ經驗をします。家族性・地域性・縣民性・國民性と徐々に母數
を大きくしていつても共通認識できる部分が日本人たらしめてゐる共同性と云ふ
ことになります。
 
日本における宗教
 日本においても宗教の要素を含む考へ方は全ての人が有してゐると考へてゐま
す。しかし要素を含んでゐるだけであり日本の風土で暮らす人々の思想を宗教と
呼ぶのは難しいと考へます。その理由としては各地域による思想のあり方に統一
性がないと云ふことです。
日本は統一された國ですが、地域の特色を大きく殘してゐます。先の地域性や縣
民性の部分に當たるでせう。日本は小さな島國であり情報や交通が發展した現在
では距離はあつてないやうなものです。それにも關はらず東北と九州では季候・
方言・文化が違ひます。違ひが殘つてゐると云ふべきでせう。同じ共同性を持つ
てゐる日本の風土で暮らす人々であつても、多樣性があると云ふ矛盾が生じます。
宗教と云ふ言葉に當てはめれば地域によつて違ふ宗教への信仰をしてゐるとも言
へます。このやうな多樣性は一神教を信仰する人々にしてみれば多神教のやうに
見えるのでせう。日本の風土で暮らす人々の信仰は前項で述べたやうに先祖への
信仰です。つまり家族單位で信仰する神樣が違ふと云ふことになるのです。この
多樣性が宗教と人との間で距離を作つたと考へます。自分自身が共同體に屬する
と云ふことは違ふ考へ方をする共同體もあると云ふ多樣性の認識を持ち、宗教に
對して客觀的な姿勢を持つやうになつたと考へられるのです。
 
包容的であり排他的である
 地域性が殘るが國民としての共同性があると云ふことは、根幹たる思想は殘し
つつ發展に必要な考へ方は取り込んでいくと云ふ思想のあり方は理にかなつた思
想であると思つてゐます。一方で必要のないものは取り込まない面も持つてゐま
す。
 宗教による爭ひは屬する共同體の思想と違ふ共同體に出會つた際に攻撃的に否
定することで發生します。日本においても思想の違ひによる爭ひはあります。し
かし多樣性のある社會ですので、考へ方が違ふと無視をする力があります。また、
考へ方が違つても一部同じ考へ方があつた場合はその點でのみ共同體として活動
するやうな利益重視な考へ方もできます。協調性があるやうな無いやうな不思議
な考へ方をする印象ですが攻撃的になりにくいと云ふ點では平和的な思想を持つ
のが日本の風土で暮らす人々と云ふことになるのでせう。
 
多樣な共同性の集合體
 樣々な考へ方の集團が集まると考へ方の違ひによつて組織が編成されていきま
す。この組織は無自覺な組織と自覺のある組織に分けられます。家族や地域・縣
民性・國民性は無自覺な組織に含まれるでせう。自覺のある組織は宗教法人であ
つたり團體を名乘つてゐたりするでせう。個人で自覺をしてゐる場合であつて何
らかの思想に影響を受けてゐます。
無自覺にせよ自覺にせよ考へや思想の違ふ集團は立場が違ふなどで區別する言葉
を作りまし。それが個人名であつたり、地域の聚落名であつたり、宗教團體であ
つたり、右翼・左翼と呼ばれたりします。區別する言葉を作ると云ふことは共同
性の強調と排他的要素を持ち合はせます。ここで冒頭に述べた私の感情につなが
ります。他者の思想を本人の意思に反して變へようとする事、利己的行動などは
不快に感じると云ふ事なのです。
私は宗教と云ふ言葉と思想の違ひを示すやうな團體名に意味はないと考へてゐま
す。自分自身は何を基準に考へ行動してゐるのか?それはどのやうな背景で培は
れてきたものなのか?私自身は家族・先祖・地域の影響を受け、書籍や人の出會
ひから影響を受け今があると思つてゐます。その影響元は何を基準にしてゐたの
かと云ふことを遡つていくとそこには原初的な信仰や思想があることに氣が附き
ました。それが日本の風土で暮らす人々であり日本人としての自覺だと考へてゐ
ます。宗教と云ふ言葉に左右されることなく自分が信じることの背景と理由を探
求し自身を自覺したうへで、日本の宗教と云ふ問ひに「日本人であること」と返
答できる人間でありたいと考へます。

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