郷土岡山顯彰=死力を盡くして朝廷を守護する雄藩=秋田智紀

復刊五号(平成二十六年七月一日)より

皇位継承第六位であらせられた、桂宮宜仁親王殿下におかれましては、本日午前十時五十五分に薨去あさばされました。 皇国民として慎みて哀悼の意を表します。


岡山城

岡山藩池田氏三十一万石の居城(岡山城)

現在放映されてゐるNHKの大河ドラマ黒田官兵衞の舞臺でも出てくるのが岡山藩(岡山市)である。備前岡山藩には、關箇原の戰ひで、西軍の實質主將格であつた備前領主宇喜多秀家が改易され、戰の功勞者小早川秀秋が備前、美作二カ國五十一萬石を得て入るが

しかし小早川秀秋は後嗣を持たずに亡くなつた。柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉と織田家四宿將の一人として肩を竝べるに至つたのが池田信輝である。信長亡きあと信輝の秀吉への密着は濃くなり攝津國のうち大坂、兵庫、尼嵜で十二萬石を領することになつた。長久手の戰ひで討ち死にした池田信輝、之助父子であつたが、次男の池田輝政は關箇原合戰後、有功の賞として播磨國五十二萬石の大大名として姫路城主となつた。輝政の弟長吉は、因幡國四郡六萬石を賜はつて鳥取に入城した。 輝政は播磨に封ぜられて以來、將軍家からしきりに恩寵を加へられ、輝政の二男忠繼は家康の外孫で特に寵愛され慶長八年二月、忠繼に備前一國二十八萬六千二百石が與へられた。忠繼はわづか五歳であつたため、兄の利隆が岡山城に入城して代政した。以降幕末まで岡山藩は備前國一圓と周邊を池田家の領國として明治に至る。幕末期の岡山藩九代藩主、池田茂政は、あの水戸藩主、徳川齊昭の九男で、八代池田慶政の長女滿壽子の聟養子に迎へ、岡山藩の繼嗣となつた。徳川十五代目將軍・慶喜の實弟である。父は水戸藩、藩校弘道館の設立者、尊攘派の始祖であれば、兄は幕府將軍、勤皇派と佐幕派の間に挾まれる形となつた。近隣には長州藩があり、尊攘派として岡山藩への影響も強く、倒幕派の思想が廣がるにつれ、岡山藩も倒幕派へと傾倒していき、藩主・茂政は實兄との對決に苦惱するやうになる。 元治元年(一八六四年)の長州征討に際して姫路に出向ひた家老伊木忠澄は征長總督徳川慶勝に面會し進軍の中止を説いてゐる。慶応二年の第二囘長州征討では忠澄は側近の近藤定常の意見を入れて「國境三石まで出兵して征長軍を遮斷すること。本藩の藩士が同調しない時には伊木家家臣のみで實行すること」に同意してゐる。しかし岡山藩は朝敵になることをおそれて形式的に備後路へ出兵することになる。岡山藩は長州藩への寛大な處置を願ひ、幕府ににらまれることとなる。幕府からは尊攘派の一藩と位置附けられてゐた。
幕府からは嫌疑をかけられ、長州藩への支援も思ひ切つてできないため、長州藩からも動向が不審と映つてゐた。どちらにも煮え切らない態度を示してゐた岡山藩も、時代が移り變はり、薩長による倒幕行動が本格化すると長州藩から岡山藩に勤皇派となつて助力するやう協力要請が入つた。藩主・茂政は態度を決めかねてゐたが、このやうな状況の中で家老・忠澄が長州藩に友好的な立場をとり、勤皇・討幕へと岡山藩を導いて、藩家老は即坐に、

「本藩も願ふところであり、死力を盡くして朝廷を守護する」と応へた。
長州藩と岡山藩との間で、戊辰戰爭が上手くいかない場合、天皇と朝廷を、岡山・長州のいづれかに守護して移すといふ約束が結ばれたのである。かうして、勤皇派の藩として重責を負つた岡山藩は、慶応四年一月に勤皇への忠誠を誓ふ方針を決定した。
兄・慶喜が幕府將軍といふ立場に就いていながら、弟の茂政は勤皇派の中樞を擔ふ立場に立つといふ不思議な現象が起きたが、これには父・徳川齊昭の訓示が深くかかはつてゐた。

茂政公は水戸斉昭公の九男※画像は水戸弘道館

茂政公は水戸斉昭公の九男※画像は水戸弘道館

文武を奬勵し士風を正し、財政を引き締め、 朝廷を尊び、尊皇の精神を養ひ、幕府を敬ひ、主從一體となつて職務に勵む事を要望された。すなはち、齊昭は佐幕派の精神は大事としながらも、何にもまして第一と考へるべきは、天皇・朝廷への忠義であるとしたからだつた。たとへ、幕府が滅ぶとも 天皇・朝廷を決して滅ぼしては成らないと嚴しく言ひ聞かせてゐたのである。それは、水戸學が日本古來の天地の成り立ちを把握し、天皇・朝廷こそ、日本そのものであり、幕府はあくまでもその代理といふ立場は、いつ何時も變はらないと定めてゐるからであつた。この水戸學が見出した眞理を齊昭は忠實に守り、息子たちに教へ尊皇の志を現したのである。そして、その齊昭の訓示を茂政も慶喜もともによく理解し、幕府が倒れるとも、天皇・朝廷を盛り立てることだけは、事缺いてはならないと判斷したのである。それゆゑ、天皇・朝廷をないがしろにするやうな行動を二人は決して行はなかつたのである。數奇な運命の二人であるが行動の規範と成したのが、水戸學であり、それは天地の道、君臣の分別、尊皇・勤皇の精神が、幕末維新の王道の理論であると理解した行動であらう。戊辰の役では新政府軍に參加するが、茂政は兄弟である慶喜追討の命令を避け朝敵とされてしまひ隱居。支藩である鴨方藩主池田章政が岡山藩主となり、戊辰戰爭に兵を派遣した。後の十四代隆政は、十三代宣政の嫡子として大正十五年十月に生まれ、戰後岡山市に歸り、池田牧場、池田動物園などを經營し、昭和二十七年、
昭和天皇の第四皇女順宮厚子内親王と御結婚あそばされ 皇室と岡山縣も縁深き間であり縣民も尊皇の精神を常に養つていかなければならないのである。
※備考
岡山藩は、備前一國及び備中の一部を領有した外樣の大藩である。藩廳は岡山城(岡山縣岡山市北區)。殆どの期間を池田氏が治めた。支藩に鴨方藩と生坂藩がある。
また岡山藩藩學は、江戸時代前期に岡山藩によつて他藩に先驅けて開かれた最古の藩校である。所在地は岡山縣岡山市北區蕃山町。國學、岡山學校と呼ばれた。
岡山城を築城したのは宇喜多秀家である。宇喜多氏は岡山城を居城にして戰國大名として成長し、豐臣家五大老を務めた。しかし慶長五年關カ原の戰ひに於て、西軍方の主力となつた秀家は改易となり、西軍から寢返り勝敗の要となつた小早川秀秋が入封し備前・美作の五十一萬石を所領とした。

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