清原貞雄著「国学発達史」考八

第二章 近世国学の先駆

第二節 復古国学の先駆

水戸学の内容

●光圀の大日本史編纂を思ひたつた動機については、幕府の本朝通鑑に、 皇室の始祖が呉の太伯の後であるとあるに憤慨したのがそれであると云はれてゐが、それは俗説であり光圀は青年時代から国史に興味を有し、本朝史記即ち大日本史編纂の為に史局を駒込の邸に設けられたのは、本朝通鑑が出来あがつて光圀がそれを見たよりも十数年前の明暦三年であつた。即ち光圀の條史事業は光圀の思想的傾向と当時一般の気運に依るものである。

●光圀の修史事業は幕府のそれよりも規模の大きいもので、光圀はその収入の大半を此の事業に費やし且つ半永久的な組織を立てたので、大成したのは二百数十年後の明治時代に入つてからである。

●内容は「神儒を尊んで神儒を駁し、仏老を崇んで仏老を排す」とあるやうに、何れの学も之を尊び、而もそれに拘泥しないのであるが、仏教は取らないので主に朱子学と国史と神道である。

●目的は我が国の大義名分を明にしてその特有の国体論を打ち立てる事である。即ち広い意味での国学である。その国体論は強烈なる日本主義である。

※清原貞雄著「国学発達史」の文中から筆者が大事と思ふ所を抜き書きしたものである。