清原貞雄著「国学発達史」考 二

第一章 徳川時代以前に於ける国学

第一節 日本紀講究

●平安朝初期に紀傳道なるものがあったが、講ずるのは三史(史記・前漢・後漢・漢書)五経・文選等の書であり、日本史を講ずるのは稀であつた。

●講日本紀※が見えたのは、嵯峨天皇の御世弘仁三年(西暦八一二)であり、十数人が日本紀を読んだ事(日本後紀※)

※日本紀講筵(にほんぎこうえん)とは、平安時代前期に国史である『日本書紀』の講義・研究を行ふ宮中行事。

※日本後紀とは日本古代の官撰の史書。六国史の第三。四十巻。七九二年(延暦十一)から八三三年(天長十)まで,桓武,平城,嵯峨,淳和の四天皇,四十三年間のことを記す。仁明天皇の八四〇年(承和七),藤原緒嗣(おつぐ)らの手で完成。応仁・文明の戦乱で散逸し、十巻のみ現存し,他の三十巻については,《日本紀略》《類聚国史》等により部分的にしか復元しえない。天皇や官人についての批判的記述のあることが特色で,編纂に終始たづさはつた藤原緒嗣の識見によるとみられる。

●和歌は右の講説の時、最終日の時に詠ぜられる。しかし日本紀(日本書紀)の講説も康保元年(西暦九六四)を以て中断される。日本紀は只輪読したもので、深い研究はされてゐない。

●日本紀私記は字訓・字義を明らかにするも、古代の思想や精神を明らかにしたものではない。朝廷の儀式典体に役立たせる事を優先し、自然深い研究は必要なかつた。日本紀の研究は云ふに足らないものであつた。

●古事記や続日本紀以外は講読すら行はれてゐない。それは漢学即学問といふ支那崇拝の時代であつた。

●平安朝時代は漢学に通じた学者が多く、自国の歴史の知識は極めて乏しい。紫式部が源氏物語を書けたのは日本紀に熟してゐたからである。

●鎌倉時代になり支那崇拝の風潮は少し薄らいで、国民精神が発揚されたが、学問の衰へは漢学と共に日本紀の研究も放棄されて終はつた。

●唐代訓詁学(支那で漢字の意味を研究する学問)が学問の全てであつたが、それに代はり宋学(支那の宋代に興つた学問文化の総称。没落した貴族に代はつて,新しい時代の担い手となつた士大夫によつて生み出されたもの。一、理想主義、二、主知主義、三、内省主義、四、人間性への信頼にもとづく楽天主義、五、経典に対する自由な批判精神、六、宇宙的感覚、七、根源的なものへの問ひかけ、八、倫理的潔癖さ、九、社会的連帯感と責任感。)が入り、神道哲学が現れたが、これは仏教や支那の思想が基となつてゐるので、日本の古代伝説は僅かにしか取り入れられてゐない。しかし国民の間に関心が出て、日本紀に関する研究が紀傳道(日本律令制の大学寮において、歴史(主に支那史)を教へた学科。)ではなく、一神社の祠官から出た。卜部家から出た釈日本紀(鎌倉時代に書かれた日本書紀の注釈書)がそれである。卜部家は吉田神社に仕へてゐて後世もつぱら吉田家と称する。釈日本紀の特徴は、日本紀の文中から難字を抽出して音を示し読み方が音を用ゐ又、訓を用ゐて居る事を示してゐる。しかし今日から見れば多くの誤りが見られるが、長年日本(古代)の研究が放棄された事を考へれば、困難と努力は大きいものである。注意点は書紀の神代と陰陽五行(古代支那では、自然界のあらゆるものを陰(いん)と陽(よう)に分けた。五行思想とは自然界は木、火、土、金、水の五つの要素で成り立つてゐるとした。)の説を結合したこと。

●釈日本紀に次いで忌部正通の神代口訣(南北朝時代の書。神代文字は象形である。応神天皇の時代に異域の書が流入し、推古天皇の時代に至つて、聖徳太子が漢字を日本字にあてはめた。と神代文字を肯定した書)がでる。儒仏に対して神道が「正」であると書いてある。しかし、儒仏の立場からものを云つてをり、五行説から取つた スサノヲノ命は地中金精の神であるとか、アメノミナカヌシノ神は明理本源の神であるとか、理気説から採つた説が見える。又、高天原は空虚であるとも書いてある。後の儒家神道の基になる。

●釈日本紀の後は文教の廃れた戦乱の時代に入る。戦国末に至つて一條兼良が日本書紀纂疏を書くも、やはり後の国学のやうな純粋なものではなく、儒仏の説を加へて神道を説いてゐる。例は アメノミナカヌシノ神は大梵天王とし、娑婆世界の主であるとか タカムスビノ神、カミムスビノ神を梵輔梵衆とし、神道にも六道四生(「六道」は仏教言ふところの生前の行為の善悪によって、死後に行き先が決まる六つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上) 「四生」は六道における四種の生まれ方。すなわち胎生・卵生・湿生・化生をいふ。)あることを説いてゐる。

●右が江戸時代前の日本紀の研究であり、古事記は殆ど閑却せられてゐる。平安朝時代より既に古事記の存在すら無視されてゐて、徳川時代も同様であつたが、本居宣長翁が初めてその価値を紹介した。

 

筆者考:平安朝から徳川時代直前と言へば約八百年の歳月がある。その間は支那の学問が優先されて、国の研究を始めるも一に儒仏ありきのものであつた。しかし文中にもあるが、長年日本書紀などの研究が放棄されてゐた事を考へれば、その努力は大きいものである。

また戦国時代は全ての研究は途絶へ、下剋上が平然と行はれ、伊勢神宮の式年遷宮も中断せざるを得ない事を考へれば、如何に世が混乱してゐたかが伺へる。また今日に於いては誰もが知つてゐる古事記であるが、その研究に於いては記されてから約千年を経てその価値が周知された事になる。

かように国学の発達とは、時代の背景により足踏みしたり、急速に発展したりとするものだが、何れにせよ発達には長く時間が掛かるものであり、困難と努力を乗り越へて如何に後世に繋げるかが、その時代の任である。

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